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2011年8月11日木曜日

英国のイラク戦争検証委員会

英国のイラク戦争検証委員会(チルコット委員会)がいよいよ今年秋に報告書を出します。「メール」紙によるとトニー・ブレアは対イラク戦争の際に、自らの内閣にも、国会にも、イギリス国民にもウソを語りました。ブレアは「戦争犯罪で有罪」(ストップ戦争連合)ということになります。日本でもイラク戦争検証委員会を設置させましょう。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

イラク戦争検証委員会はトニー・ブレアが戦争犯罪人であることを確認するだろう。それではその次に何が起こるのか?        
※ストップ戦争連合のHPより

サイモン・ウォルターズ トニー・ブレア・ウォッチ  2011年7月31日

イラク戦争検証委員会はトニー・ブレアが自らの内閣にも、国会にも、イギリス国民にもウソを語ったと「メール」紙は言う。そうなると、戦争犯罪で有罪だ。その次に何が起こるのだろうか?

サイモン・ウォルターズ メール・オンライン  2011年7月31日

トニー・ブレアは現代史上最大の外交上の大失敗に英国を導くのに自らが果たした役割について政府が設置したイラク戦争検証委員会の容赦ない批判に直面することになる。彼は4つの主要な失敗に責任があると見なされるだろう。

*サダム・フセインの大量破壊兵器に関して作り出された虚偽の主張を行った。

*戦争を開始するというジョージ・ブッシュとの秘密の約束を英国民に言わなかった。

*ソファー・ガバメント[非公式の顧問グループを中心に行う政治]スタイルで内閣には何も知らせないでいた。

*イラクの戦後の大混乱を避ける計画を立てなかった。

信頼できる情報筋によると、ブレア氏と主要な盟友たちの声望は、ジョン・チルコット卿のイラク戦争検証委員会の報告が今年の秋に公表された時に多大な損害を被るだろうという。ブレア氏とジャック・ストロー元外相や元首相官邸の情報操作専門家アラスター・キャンベルはみな批判を受けると予想されている。

チルコット卿の5人の強い権限を持つ専門家の委員会によって非難を受ける者たち全員が2、3週間のうちにイラク戦争検証委員会の結論についての通知を受けるだろう。彼らは報告が完成する前に申し立てた誤りについて反論する最後の機会を与えられるだろう。まだ書かれてはいないが、どの分野に焦点を当てるのかについては明確な見通しが示されてきた。

ブレア氏がジョージ・ブッシュと一緒にサダム・フセインに対する戦争を行って8年がたち、チルコット委員会は有罪の判定を下す。イラクで合計179人の英国兵士が死んだ一方でイラク人の死者の推定数は10万人から65万人まである。サダムは数週間で倒されたが、イラク侵攻は血塗られた結果を引き起こし、英国や他の場所でテロを増加させる原因になったと主張された。

2年前に当時のゴードン・ブラウン首相によって設置されたチルコット委員会はイラク紛争に関する3つ目の委員会である。情報の欠如に関するバトラー委員会と国防省の兵器専門家のデビッド・ケリー博士の死に関するハットン委員会に次ぐものである。

委員長である元公務員で72歳のジョン・チルコット卿はイラク戦争の2年前の2001年から2009年までの全ての期間に及ぶよりよく調べる調査を行うことを要請された。

ブレア氏が議会に対してサダムが大量破壊兵器を保有していると言っている情報は「疑いもないこと」であると言った事に対して、検証委員会は厳しく追及している。証人としてブレア氏はふてぶてしくも戦争には何の後悔もしていないし、英国は結局はイラク戦争を「計り知れない誇り」を持って振り返ることができるようになるだろうと言い張った。しかし彼は、サダムが45分以内に大量破壊兵器を発射することができるという首相官邸の調査書類の主張の解釈を誤ったことは認めた。彼はまた、戦争前には英国下院で明言したにもかかわらず、2002年秋にはサダムからの「増大しつつある」脅威はなかったことをしぶしぶ認めた。

チルコット委員会の報告は情報操作専門家のキャンベル氏を批判するだろうと予想されているが、サダムの兵器に関する調査書類が「戦争を起こすために事件を起こす」ことをたくらんだものであったのだと言うことを彼は否定したが、国防省情報局の情報収集部長であった元スパイの頭目のマイケル・ローリー少将によって異議を申し立てられた。

ローリー少将は2ヶ月前にチルコット委員会にこう言った。「アラスター・キャンベルはその書類の目的は『戦争のために事件を起こすこと』ではなかったと言いました。私は当時、それが真の目的であり、まさにこの言葉が使われたと言うことに何の疑いも持ちませんでした。私たちは当時、その目的が、役に立つ情報を用意するのではなくて、まさに戦争のための事件を起こすことにあるのだということを知っていました。私と書類の作成にかかわった人々はまさにそのように見ていたのであり、それが私たちに与えられた指示だったのです。」

そして今月はじめには、名前のわからないMI6[英国情報局秘密情報部]の幹部が言うには、キャンベル氏は情報書類に関する活動で「誘導されていないミサイル」のような行動をとっている。そして情報操作専門家は「頭にかっと血が上って事前の適切な相談もなくジャーナリストにさまざまな話や情報を伝える傾向」があるというのである。

チルコット委員会はまた、国民にはまだ決定はしていないと主張しながら、対イラク戦争の1年以上も前に戦争を支持すると個人的にブッシュ氏に言ったというやり方に焦点を置くだろうと理解されている。ブレア氏は2002年にブッシュ大統領のテキサスの農場で開戦の取り決めの「血盟」が交わされたということを否認した。彼はサダムに「対処する」ことに合意しただけだ、と言ったのである。

しかしながら、英国が「体制変更」を支持したかどうかということについてのブレア氏とストロー氏の間の意見の食い違いもチルコット委員会の結論の顕著な特徴となるだろう。その上、ストロー氏は、自分が「非常にしぶしぶ」イラク戦争を承認しただけなのに、イラク戦争が違法であると言う外務省法律顧問の警告を無視したと言ってしまったので、非難を受けている。元外務省上級法律顧問のマイケル・ウッド卿は、イラク戦争に抗議して辞任を検討したし、開戦に反対した後は干されたと言ったのである。

戦争に関する主要な決定が腹心の小さな仲間内によって彼の書斎で決められると言う、ブレア氏のソファー・ガバメント[非公式の顧問グループを中心に行う政治]のスタイル―大部分の閣僚や政府当局者が排除されていた―もまた糾弾されると予想されている。

サダム打倒の後の戦後の混乱の対策を立てなかったことは、チルコット委員会の結論のもう一つの重要な部分になると信じられている。チルコット委員会は、英国軍の司令官のティム・クロス少将が、一つには戦後の計画が「哀れなほどに貧弱」であるために、開戦の2日前にイラク侵攻を遅らせるようにブレア氏に要請した経過を聴取した。

クロス少将は「私は『この軍事作戦に勝てることには何の疑いもありません。しかし、戦後のイラクの準備はできていないと確信しています』と多大な言葉を使って言ったのを覚えています。」と言った。彼は戦後バグダッドに着くと、事態は予想以上に悪化していた。「バグダッドは金網とチューインガムによってつなぎ合わされていました。」と彼は言った。

ブレア氏に近い筋は、ブレア氏が直面しそうな類の批判のことは承知していると言う。「これはまだ書かれてもいない報告を予断をもって判断しようとする意図的なたくらみである。我々は公表されるまでコメントはしない。」ということである。

2011年2月6日日曜日

2011年1月 ブレアをイラク戦争検証委員会に再喚問

2011年1月21日、イギリスのイラク戦争検証委員会(チルコット委員会)はブレア元首相を再喚問しました。昨年の検証委員会の審問の場がブレアの侵略戦争に対するひどい居直り宣伝の場と化したことに対する厳しい批判の中で実現した再喚問です。


ストップ戦争連合はブレアを戦争犯罪法廷にかけることを要求しています。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

戦争犯罪人のブレアは闇に紛れてイラク戦争検証委員会にこっそり入場

反戦運動の抗議行動参加者たちは、トニー・ブレアが2003年の違法な戦争を開始したのとにそっくりのやり方で闇に紛れてイラク戦争検証委員会に「こっそり入場」したあと怒りの非難の声を上げ始めた。

デイリー・メール紙 2011年1月21日

ブレア氏がウェストミンスターのQEⅠⅠ会議センターにこっそり入ったのは再喚問を受ける予定の2時間以上前であり、CND[核軍縮運動]やストップ戦争連合などのグループの抗議行動より相当前のことであった。

元首相が到着したのはまだ日が暗い時であった。

大勢の活動家が現れて、元首相をウソつきと呼ぶ横断幕を掲げ、「トニー・ブレアはハーグへ」とくりかえしたのであり、ハーグは戦争犯罪法廷が開かれている場所である。

一人の男性がトニー・ブレアのマスクを来て模造品の独房のドアに自分を手錠でかけて大喝采を仲間から受けた。

ストップ戦争連合のアンドリュー・マレー議長は言った。「またもやブレアは2003年の違法な戦争を開始したのとそっくりのやり方で闇に紛れてイラク戦争検証委員会にこっそり入場した。」

「願わくは今日この後ブレアはゴールドスミス卿によって受けた法律的助言について真実を語るように要請され、彼がいまだに秘密にしているブッシュに宛てた書簡の内容を公然と取り調べられるようにしてもらいたい。」

息子のショーン・ブリアリー伍長がイラクに配備直後に死んだピーター・ブリアリーは、ブレア氏が前回イラク戦争検証委員会に審問された時にやったのと同じように早い時間に到着して抗議行動に立ちはだかられるのを避けたことには驚かない、と言った。

「彼がこの場では適切な審問を受けることがないのは、自分の選んだどの時間にでも退出することができるからだ。彼は適切な裁判にかからなければならないし、法廷弁護士や法律家から審問を受けなければならない。彼は戦争犯罪人なのだから強制捜査を受けなければならない。彼は私の息子を殺したのだから私は彼が裁判にかけられるまで運動を続ける。」

労働党のジェリミー・コービン下院議員(イズリントン北地区)はブレア氏とジョージ・ブッシュ前米国大統領の間で交わされた書簡が公開されないのは、「不名誉なこと」であると言った。

「この検証委員会に何らかの意味があるのなら、関係書類の全てが公開されなければならない。」

CNDのブルース・ケントは抗議行動参加者たちに言った。「トニー・ブレアはゲームは終わったと言うことを知らなければならない。体制派の仲間のメンバーが今や彼に背を向け始めているのだから。」

「彼がやったことは大惨事であり、彼は戦争の惨害から数世代を救おうとして導入されたとても壊れやすい構造に実際に2本の指を突き立てたのです。世界中の他のどれだけ多くの殺し屋や無法者が今、ブレアはうまく切り抜けられるだろうか、と言ってるとしても、我々もそうするだろうか?」

ストップ戦争連合創設者の一人のジョン・リーズはイラク戦争検証委員会はイラク戦争の真実には到達しない資金の無駄遣いであると言った。

ストップ戦争連合はブレア氏とブッシュ氏の全ての往復書簡が明らかにされる戦争犯罪法廷にブレア氏が出廷することを要求する声が高まっていると言った。

2010年 英国イラク戦争検証委員会へのストップ戦争連合の批判

昨年(2010年1月)のイギリス・イラク戦争検証委員会(チルコット委員会)のブレアの証言に対するストップ戦争連合の批判です。


ブレアがイラク侵略によって大量殺害を実行したことに対して完全に居直り、彼の戦争犯罪について何の追求もせずに検証委員会の場をブレアの居直りと侵略戦争正当化の演台にすることを容認したチルコット委員会も厳しく批判しています。

こうした反戦運動の批判と闘いがあったからこそ今年(2011年)1月のチルコット委員会へのブレア再喚問が実現したと言えるでしょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)


審判:大失態であり恥辱であり完全な失敗
トニー・ブレアはイラク検証委員会から最も手ぬるい扱いを受ける

次から次へと出る論点に関して、イラク検証委員会はブレアの証言を問題にする意思も能力も全くないことが明らかになった。ブレアが退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ガーディアン紙 2010年1月30日

ブレアを牢獄へ

シューマス・マイルン(ジャーナリスト)

今朝の大失態は失敗へと変わった。次から次へと出た論点に関してチルコット検証委員会のメンバーはイラク戦争に関するトニー・ブレアの最も打撃の大きい告白や不明瞭やウソに対して問題にすること―あるいは見たところ確認することさえ―する意思も能力もないことが明らかになった。

大部分のイラク人が占領に反対し、必然的に起きる予想された武装抵抗を支持したという事実について、委員会の誰1人として前首相に対して追求しなかったのはなぜだろうか?それどころか、彼らはブレアが反論してそれが全て「外部的要因とアルカイダとイラン」のせいであると主張するのを許したのである。彼らはそのどちらもイラクに持ち込んだのがイラク侵攻であるということを覚えていないようでもあった。

ブレアがイラクの大量殺人はテロリストに責任があると主張した時、少なくとも最初の2年間における市民殺害の大部分は占領軍によって行われたのだと発言しようとは誰も考えなかったのである。

対イラク侵攻の影響がイギリスや他の場所にかけられたテロ攻撃をあおり立てたことについてはどうだろうか?一言もなかったのである。そしてブレアがイラクにおいて「我々は人道上の大失敗に終わったのではない」と主張し、イラクの「顕著な」進歩ぶりを示す人々を誤らせる一連の統計を引用した時、委員会のメンバーは、国連が何と言おうと、それも喜んで受け入れたようである。

驚くべき証言があった。占領開始後には「残念ながら我々が問題になるだろうと考えたことは、問題ではなかった。」とブレアは言った。アルカイダとイランは「対イラク侵攻の任務をほとんど失敗させかけた」…しかし結局「そうはならなかった」とブレアは言明した。米軍が「あまりにも厳しく、あまりにも激しく」ファルージャにすでに突入していたというのである。いずれにしても、ブレアの大西洋を隔てた愛は彼が権力から去って以来深まっているのである。

検証委員会の報告に反論があるだろうと期待する人もいるかも知れない。しかし、破滅的な戦争犯罪に責任があると国内外で見なしている人が多い1人の男に対する当局の寛大ぶりの惨状には吐き気を催す。ジョン・チルコットはある時、占領の教訓は「高くついたが非常に必要なもの」だったと言った。その代価を実際に払った何百万人ものイラク人は全く違った見解を持っているのだ。

イラク検証委員会のブレア

ヘンリー・ポーター(小説家、ジャーナリスト)

正面のチルコットの前に現れたブレアの姿は炉端談義をしているみたいで、もっと穏やかなロンドンのクラブから来た委員会と対決するほどの困難さもなかった。

検証委員会のメンバーが、首相である時には正しいと信じることがほぼそのまま正しいことであるというけしからぬ考えや、判断を下すこと自体に決定的な価値があるという発想を実際に問題にすることはただの一度もなかったのである。
このことは―驚くことではないが―完全な失敗であり失態であった。この公聴会はチルコット委員会の報告がどんな結論を出そうとも、国民に対して、軍務についていた愛する人を失った人々やイラクの人々に対して、不満足感を与えた。審問団の歴史家―マーチン・ギルバート卿とローレンス・フリードマン卿である―と2、3回会話を交わした後は、十分に準備をしていたブレアにとってその後に続く6時間は汗を流す必要がないことは明白であった。すなわちそこに座って彼らに調子を合わせるだけの問題だったのであり、ブレアはそれを牽制と重要でない点での譲歩と誠実な政治家であるという外観を見せることによってやったのである。

午後になるまでに、検証委員会は2003年の侵略が2010年にもっと大きくなる危機から救ったのだとする彼の誤った世界観のための演台へと転落させられたのである。委員会はどうしてブレアにそんなことをうまくやらせることができたのだろうか?彼らは大量破壊兵器や、対イラク戦争の開戦理由として大量破壊兵器とサダムの打倒を混同した事や、ブレアが法律に関する意見を押さえ込んだことや、イラク侵攻後の計画を立てなかったことについての情報に基づいて厳密にブレアを審査するということをしなかった。委員会はブレアが後悔していないと表明した時に彼からどんな小さな後悔を引き出しもしなかったし、驚きの声を上げることもなかった。

ブレアが検証委員会から退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ハイファ・ザンガナ(小説家、イラクのサダム・フセイン政権時の元政治囚)

イラク戦争検証委員会でのトニー・ブレアの証言を見るのはひどく苦痛であった。ブレアは自らの経歴全体でそうであったと同じように口先のうまい人物であり、自らの「完全に明快な」見解を、選択肢がいかに全く明快な物であるか、そして「自らが正しい時には実行するのが正しいことだ。」と繰り返したのである。彼は自分のいつもの台本に従って、自分の演説の文章を読み上げたり、WMD[大量破壊兵器]について今やより強く感じている理由を長々と述べ立てたりして、イスラエルの武器庫については一切言及しないくせに「イランの危険性」について委員会を巧みに操ることが何とかできたのである。彼はとても独善的であり、私は彼が「イラク戦争について私を裁くのは神だろう。」と大声を上げて聖書を抱えて今にも立ち上がるだろう、という印象を受けた・

しかし、戦争犯罪人が自らの罪を認めることがどれくらいあるというのだろうか?彼は暖かく明かりの多いホールで家柄の良い人々と永遠に続くかも知れない学問的会話をしていたのである。大学生の方がもっと厳密な質問をしたことだろう。

バスラの62才になるおばあさんのサビハ・クドゥール・タリブは、彼女の息子によると、2006年に英国軍兵士によって自宅から連行された。拷問を受けた彼女の死体が英国軍の死体収容袋に入れて道ばたに投げ捨てられていた。英国警察が捜査中であると私たちは告げられている。ブレアも捜査を受けなければならないのではないのか?ブレアの尋問を、ブレアとブッシュによって始められたイラク人に対する尋問と比べるべきだ。

アブ・グレイブは「解放者」によって始められたテロ作戦の始まりに過ぎなかった。その遺産は、傭兵と米国・英国によって訓練を受けたイラク人警備部隊や、真夜中の家宅捜査や、下着のままで両手に手錠をかけられ頭に袋をかぶせられて闇の中に引っ張って行かれた人々が、後になって「間違いだった」と呼ばれるかも知れない申し立てについて拷問を受けることになるのだ。先月だけでもテロの容疑で2000人近いイラク人が逮捕されたのである。

ブレアの洗練された演技はイラク人やアラブ人やイスラム教徒にとっては現場で彼らが経験していること、すなわち人種差別的な植民地外交政策を立証しているに過ぎないのである。

この検証委員会は正義と国際法の再確立につながってこそ初めて意味がある。そうでなければ、増え続ける孤児たちが2,3年のうちにイラクと世界に何をするのかを想像できるだけである。最近の赤十字のレポートに引用されているが、ある人道活動家が「私はかつて一度爆発の現場に呼ばれたことがあります。そこでは4才の男の子が首を吹き飛ばされた母親の死体の横に座っていました。男の子はお母さんに話しかけて、『何があったの?』とたずねていました。」と語った。男の子は生きている人たちにも尋ね続けるだろう。現在の国連推計では、イラクの500万人の孤児が出た責任は英国と米国にあるとしている。今や、ブレアたちを民主的な選挙で二回選んだイギリス国民が、犠牲者への賠償をして、政府にイラクと世界に与えた打撃に対する責任を取らせる時である。

ジョージ・ギャロウェー下院議員
(ベスナルグリーン・アンド・ボー選出のリスペクト党下院議員)

悲しいことにこうやって彼は会場を支配し、質問されるのを避け、問題を追及された時に世論を欺くことを許されたのである。

イラクは侵略されてはならなかっただけではなく、経済制裁もされてはならなかったのである。それが今日の話からは完全に抜けていた。

ブレアは「要求に従うサダムの最後のチャンス」について話し続けるのを許されたが、イラクは違反をしていなかったし1994年以後も違反はしていなかった。ブレアは見えすいたウソを言うのを許され、検証委員会はウソを無視したのである。

イラクの重要な違反の理由の一つは、イラクがイラク国外で軍幹部を尋問することを武器査察官に認めよと要求する決議の条項をイラクが破ったことである、とブレアは言った。実際には、武器査察官が軍幹部をイラク国外に出るように要請する権限を決議は与えていたが、そのような要請は行われなかったのである。

だからイラクは拒否はできなかったし国連安保理決議1441条に違反することもできなかった。その事を知らなかったとしても、また知っていたとしても、検証委員会はこの問題でブレアに立ち向かう勇気がなかった―それはとてつもないウソである。

私たちに終わりはない。この連中に責任を取らせる運動は続いているし、総選挙へと続いていくことは疑いない。

ローズ・ジェントル
(彼女の19歳の息子のゴードンは2004年6月にイラクで殺された)

私が会場に入った時、体は震え、胃がむかついていたのは、彼に何も言えなかったからだ。私はこう言ってやりたかった。「真実を言え。なぜウソをつく?白状して自分は間違いを犯したと言ったらどうだ?」と。

最後の最後の部分は胸が悪くなった。ジョン・チルコット卿が後悔しているのか、と聞いても彼はしていない、と言った。そこには(家族を奪われた)家族がいたのに、一片の同情も一片のそれらしきものもなかったのである。耐え難いことだった。

彼はちょうど私たちに背を向けて座り、そのあと私たちに会うことも拒否したし、彼らしい態度だ。私は彼の姿を見ることができたが、彼の顔を見たかった。彼は私たちの方を決して見ようとはしなかった。

たくさんの良い質問が彼にされたが、実際には、どの質問にも彼は答えなかった。彼は問題を書類、すなわち調書に戻し続け、45分の大量破壊兵器の主張の責任をメディアのせいにしようとしさえした。

新しいことは何も知ることはなかったと思うし、検証委員会が終わってもできることは多くない。

私は彼を決して許さないし、彼は法廷に立たなければならないと確信している。私は一生彼に対して怒るだろう。

ローナン・ベネット(シナリオライター、小説家)

「私は自分の信じることしか知らない。」正直というものが常にブレアの最初から最後までの防衛線になってきた。彼が窮地に立っている時に、すなわちさらに悪いことに証言が誤りであることが明白になる時に、彼は誤りは免れないものだという人間一般に共通の性質を「あれ、おやっ?」と言って肩をすくめるという英国の公立高校版の仕草で認めるだろう。

フェルン・ブリットン[テレビのニュースキャスター]のインタビューなのか?自己卑下して、少し練習をしておいたジョークというのはコミュニケーションの前線においてはまだ何らかの学ぶところがある。

ローレンス・フリードマン卿がサダム・フセインが大量破壊兵器を持っていたと信じているのか、と聞いた時、ブレアはこう答えた。「私は信じていました。私は確かに信じていました。」彼は45分で大量破壊兵器が配備可能だと言うこと、経済制裁が機能していなかったこと、国連の2度目の決議が可能であること、戦争は合法的なものであること、恥知らずにも9・11事件とアルカイダとイラクを結びつけながら、イラクは脅威であったことを信じていたのだと彼は繰り返した。

正直が大きくなればそれだけ信じることも大きくなる。「彼の証言は、正しいことをしていると信じている人間のそれであった。」とBBCのニコラス・ウィッチェル記者が言った。我々はみな、その時には自分が正しいことをしていると信じた他の指導者たちのことが思い浮かぶ。そのかなり連中は極悪人であった。

英国の選挙で選ばれた指導者が信じていた唯一の点は、それが事実と合致するかどうかと言うことであった。信じていることが事実であるとなれば、自らの目的に合うどんな行動を取る道も開かれるからである。トニー・ブレアは一つの目的を持っていた。「第三の道」というたわ言のために、彼は論客になるのである。

幾万もの市民が死んだ戦争を始める権利を彼とブッシュが持っているのだという暗黙の前提は検証委員会を構成する男爵夫人やナイト爵や高官によっては疑問を出されることはなかった。ナセル?スエズ?モサデク?欧米諸国は常に自らの目的を正当化する方法を見いだすことができるのである。

在任期間中、ブレアは自分の分の支払いをいやがるので悪名高かった。彼は横の出口からすり抜けてヘッジファンドの友人の所に復帰した時、彼が爆撃をした国の人々は長期にわたって彼の正直さに対する勘定書を掲げ続けるだろう。

抗議行動参加者

トニー・ブレアの証言を聞いた聴衆の中の2人が、証言が終わった後で彼のことを「ウソつき」で「人殺し」だと言った。

何時間も聴衆は静かに聴いていた。しかし、終わり近くなって、彼は1人の発言妨害者に発言を中断させられたが、すぐに検証委員会議長のジョン・チルコット卿に制止された。テレビカメラが放映を止めた後、会場の聴衆の1人がブレアに対して叫んだ「お前は嘘つきだ。」2人目が付け加えた。「そして人殺しだ。」

イラクで殺された英国兵士の家族が元首相は「一人よがり」だったと言った。家族の一人はブレアが彼女の目を見て息子を亡くしたことに「申し訳ない」と言ってほしいと求めた。

バークシャーのリーディングのアンネ・ドナチーは2006年に狙撃兵によって18歳の息子のポールを殺害された。彼女はブレアを糾弾した。「今朝私が聞いた限りでは、彼は全てを否定しているだけです。彼は真実に面と向かうことさえしないでしょう。彼が私の息子をイラクに送った時、巨大な誤りをしたのに違いありません。」

北ウェールズのルランドゥドゥノのテレーズ・エバンスは2003年にチヌーク・ヘリコプターの事故で24歳の息子のリウェリンを失った。「私はトニー・ブレアに私の目を見て申し訳なかったと言ってほしいだけです。ところが彼はそんなことはしないであそこでニヤニヤ笑っているのです。」

その後、抗議行動参加者たちは「ブライアー[ウソつきブレア]」と書いたプラカードを握りしめてブレアが出発するのを待った。その朝ブレアは彼らを避けて午前7時30分に通用口を通ってウエストミンスターのQEⅠⅠセンターへと滑り込んでいた。

屋外の警察の隊列が抗議行動参加者と検証委員会の間に立った。

「彼は国民に顔を見せに来る誠実さもない。」とストップ戦争連合の呼びかけ人のリンドゼー・ジャーマンが言った。「裏口からこっそり入り込むなどは、彼のウソと偽りと言い逃れの典型だ。」

2010年10月30日土曜日

イラク戦争検証委員会にブレアを再喚問

イギリスのイラク戦争検証委員会(チルコット委員会)がブレア元首相を再喚問します。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

トニー・ブレアがイラク戦争検証委員会に再喚問

トニー・ブレアが「矛盾した証言」、すなわち明らかに彼以外はみんながウソであると知っているものについて、イラク戦争検証委員会に証言をするために再び喚問された。

デーリーメール紙 2010年10月26日
トニー・ブレアは今年初めに行った証言の「食い違い」についての新たな疑問に答えるためにイラク戦争検証チルコット委員会によって再召喚されることになる。
ブレア前首相は2003年の米国主導の侵攻に対してどのような政治的後押しを行ったかを明らかにするように求められるようだ。
彼はまた、議論の的になった戦争にイギリスが参戦したことにどれほどの合法性があったのかに関してさらに説明を求められている。ジョン・チルコット卿は来月ブレア氏に対して、2011年はじめの公聴会に出席を求める手紙を書く。
今年初めの6時間の証言で、ブレア氏はイラク侵攻を精力的に擁護する論陣を張り、サダム・フセインを除去したことに何の後悔もないと主張した。彼は独裁者が持っていると思われていた大量破壊兵器に関する「ウソ」を根拠にしてイギリスを参戦させたことは否定した。

彼の証言時間の最後に、聴衆の一人が「何だって、後悔していないって?冗談じゃない、他の人々は「お前は嘘つきだ」「そして人殺しだ」と野次り倒しているんだぞ」と叫んだ。
ジョン卿は、「私のチームはイラク侵攻に関する何千もの政府の機密文書を徹底して熟読しているので、もしも証言の中に矛盾か食い違いが見つかったなら、証人を再召喚する」と事前に説明している。
ライアム・フォックス現国防長官はジョン卿に対して、イギリス兵士がイラクとアフガニスタンの戦争にいる期間の国防費を自分が削減したのだという侮辱的な証言を押しつけられたので、今年初めにゴードン・ブラウンを検証委員会に再召喚するように要請した。
当時のブラウン首相は下院議員たちに労働党政権下の国防予算は「実際に毎年上昇していた」と検証委員会に言ったことは間違いであったと言ったのである。
1月に、強情なブレア氏はイラク侵攻について「後悔していない」と証言した時にイギリスの戦死者の家族から野次られ罵倒された。しかし彼は同じ事をまたするだろうと明言し、世界の指導者たちにイランに対してもうすぐ同様の決定を行わなければならないかもしれないと警告した。
70万人ものイラク人と179人のイギリス兵士が死んだにもかかわらず、ブレア氏は6時間の証言の最後に「責任は感じるが後悔はしていない」と言った。一片の良心のとがめもなかったのである。
サダムは「怪物」であり、大量破壊兵器を所有する「可能性」を防ぐためであったとしてさえも、彼を排除することは正しかったのだ、とブレア氏は言った。
彼はイランの核兵器計画は今やはるかにに大きな脅威になっていると警告した。

2010年8月21日土曜日

イラクからの撤退は占領ブランドのはり替え

英国のガーディアン紙が米軍のイラクからの「撤退」の本質を暴いています。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

米国はイラクから撤退するのではない、占領のブランドをはり替えているのだ

シューマス・マイルン   ガーディアン紙 (英国) 2010年8月4日 水曜日

オバマは撤退は予定通り進んでいると言っているが、残存するか外部委託した戦闘部隊はイラク人に国を返しはしないだろう
http://www.uslaboragainstwar.org/article.php?id=22765

英国と米国の大部分の国民にとってイラクはすでに歴史と化している。NATO軍の戦死者が容赦なく増加するにつれて、すでにずっと前からアフガニスタンがメディアの関心の一番大きい部分を奪ってしまっている。イラクに関する議論は今ではほぼ全部イラク侵攻をした元々の決定に集中している。2010年にイラクで起こっていることはほとんど印象に残っていないのだ。

それはバラク・オバマが今週、米国の戦闘部隊は「公約に従い予定通りに」今月末にイラクから撤退する、と宣言したことでさらに強められることになるだろう。英国と米国の多くの報道機関にとっては、これが実際に起こったことなのであった。すなわち、見出しは戦争の「終結」を祝い、「米軍はイラクから撤退へ」と報道したのである。

しかしこれほど事実から遠ざかったものはない。米国はイラクから撤退など全くしていないのである―占領に新しいブランドをはり変えているだけである。オバマが大統領になった時にジョージ・ブッシュの対テロ戦争が「海外の偶発事件の作戦」に名称を変えられたのとちょうど同じように、米国の「戦闘作戦」は来月から「安定化作戦」へとブランドをはり替えられるだろう。

しかしイラクの米軍スポークスマンであるスティーブン・ランザ少将がニューヨークタイム紙に言ったように、「実際問題としては何も変わらないだろう」。今月の撤退後にも94ヶ所の軍事基地になお5万人の米軍が残り、イラク軍に「助言」をしたり訓練をしたり「治安を提供」したりして「テロ対策」任務を遂行するだろう。米軍用語ではそれは米軍のやりたいこと全部を優におさえているのである。

5万人は1年前のイラクにおける兵力の大幅な削減ではある。しかし、オバマがかつて「ばかげた戦争」と呼んだものは執拗に続いているのである。事実、イラクの政治諸勢力がグリーン・ゾーンの町の中で暗礁に乗り上げて5ヶ月目になっている間に、暴力が増加しているのである。市民の殺害はアフガニスタンよりもイラクの方が多くなっている。イラク政府によると先月だけでも535人である。これは過去2年で最悪の数字である。

そしてたとえ米軍が町中ではほとんど姿が見えないとしても、毎月6人の割合でなお死んでいるのであり、米軍基地はレジスタンス・グループによって何度も砲撃を受けているが、その一方でイラク軍と米国が支援する宗派の私兵ははるかに多くの人数が殺され続けていて、アルカイダ―すなわちブッシュのイラクへの贈り物―はイラクの長い帯を横断して活動に戻ってきている。英国ではほとんど知られていないが、今なお150人のイラク国内の英国軍が米軍を支援し続けている。

その一方で、米国政府は占領のブランドのはり替えをするだけではなく、占領の民営化も進めている。占領軍のために約10万人の民間契約雇用者が働いていて、そのうち1万1000人以上が武装した傭兵であり、その大部分は発展途上国出身者を典型例とする「第三国の国民」である。ペルー人1人ととウガンダ人2人の警備会社契約社員がグリーンゾーンへのロケット攻撃で殺されたのはほんの2週間前のことである。

米国は今や、悪名高い米国の警備会社のブラックウォーター社の役割を暴く助けをしたジェレミー・スカヒルがイラクにおける軍契約者が「押し寄せつつある」と呼んでいるものの数を急増させたいのである。ヒラリー・クリントンはイラク全土の5ヶ所の「恒久的駐屯地」に配備するために国務省で働く軍契約者の数だけでも2700人から7000人に増やしたがっている。

外部委託をした占領の利点は、米国兵士以外の誰かがイラクの統治を維持するために死ぬことができるのだから明確である。それはブッシュが政権を去る直前になされた、2011年末までに全ての米軍兵士を撤退させるという公約の抜け道をつくる助けにもなる。別の撤退とは、あらゆるところで広く予想されていることであるが、適切な政府がつなぎ合わせてできてそれが可能となったらすかさず、イラク側が米軍に駐留を続けてほしいと新たに要望することである。

今やバチカン市の大きさを持つ駐イラク大使館を持つ米国がいつでもすぐにイラクを手放すなどと言った意図は持っていないことは明々白々である。その一つの理由は、1958年以前の英国による統治の下のイラクの石油を開発していた3社の英米石油メジャーなどの外国企業に昨年分け与えられたイラク最大の油田を稼働する1ダースもの20年間契約が結ばれたことに見いだすことができる。
これらの契約の合法性があいまいなために動きを抑えた米国企業もあったが、この問題について今度出版する本の著者であるグレッグ・マティットが論じているように、アメリカ側の獲得物は、イラクの石油埋蔵量の60%を長期間の外国企業の支配の下にした契約そのものより大きいのである。もしも石油産出量が計画通りに急速に押し上げられたら、世界の石油価格は大幅に下落し頑固なOPEC[石油輸出国機構]諸国の支配は崩壊するかも知れないのである。
その一方で、戦争がイラク民衆かけた恐るべき犠牲と日常生活で続く恐怖と窮状は、2007年の米軍の増派が「役に立った」とかイラクは結局はうまくいっている、という主張をあざ笑っているのである。

何十万人もが死に400万人が難民になっただけではない。米国(及び英国)による占領が7年を過ぎても、何万人もの人たちが裁判も受けずに拷問され投獄され、医療や教育は劇的なまでに悪化し、女性の地位は恐ろしいほど後退し、労働組合は実質的に禁止され、バグダッドは1500ヶ所の検問所と爆弾防止壁で分断され、電力供給はほとんど止まってしまい、人々は言いたいことを言うのにも命がけである。

3月の国民議会選挙の茶番劇と、立候補者や活動家の禁止や殺害と、それに続く政治の崩壊というものがたとえなくとも、本日のタイムズ紙がやったように、「イラクは民主主義国である」と主張するのは奇怪なことである。グリーンゾーンの政権は米軍と警備会社の契約社員の保護がなければすぐに崩壊するであろう。イラク人と米国当局者の間では最終的に軍事力による乗っ取りが行われるのではないかと予想していることは疑いない。

イラク戦争は米国にとって歴史的な政治上、戦略上の失敗であった。米国はイラクを西欧的価値の灯台か中東地域の警察官に変えるどころか、軍事的解決策を押しつけることができなかった。しかし宗派主義と民族主義のカードを切って、国民的なレジスタンス運動が台頭して屈辱的なベトナム戦争型の撤退することを防ぎもしたのである。イラクと中東地域の支配権を維持するために、米国は新たな形態の外部委託式の半植民地的政権をつくりたがっているという兆候が現れている。イラクの独立を取り戻す闘いはまさに始まったばかりである。

2010年7月26日月曜日

イギリス下院でクレッグ副首相が「イラク戦争は違法であった」と発言

イギリス議会下院でクレッグ副首相(自由民主党)が、イラク戦争は違法であったと発言しました。一国の副首相が国会の公式の場で発言したわけですから、ブレア元首相たちを戦争犯罪人として訴追する法的根拠ができたということです。「イラクに対する違法な侵略」をやったのですから、当然裁判を受けなければなりません。
イギリスでイラク戦争検証委員会を開かせた反戦運動の力がこうした発言を引き出したと言えるでしょう。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

イラク戦争は違法であったとニック・クレッグが発言。今こそブレアを法の裁きにかけよう

 ストップ戦争連合

http://stopwar.org.uk/content/view/2007/1/

ニック・クレッグ副首相は下院において、国中のどの居間においても常識となっていること、すなわちイラク戦争は違法である、と発言した。彼は今こそこの著しく破滅的な国際法違反をやった張本人たちを、何よりもトニー・ブレアを、確実に法の裁きにかけるために自らの権限を行使しなければならない。そうなって初めて我々はこのような違法な侵略行為が二度と繰り返されない保証を得ることができるのである。

ツー・サークルド ネット 2010年7月23日

 英国のニック・クレッグ副首相はデビッド・キャメロン首相にとっての最初の議会で発言に立った時にイラク戦争は違法であると発言して論議を引き起こした。

 そのためにトニー・ブレア元首相は戦争犯罪裁判を受けろという要求があらためて起こり、2003年のイラク侵攻に参加したイギリス軍も訴追を受けるかも知れないという懸念が出ている。

政府の当初の対応は、クレッグが首相の代役を務めているにもかかわらず、彼が個人的な立場で発言していると主張して、ジャック・ストロー元外相に「イラクに対する違法な侵略の全ての最も破滅的な決定を行った責任を取る」べきであると要求したことを大したことでないように見せることであった。

 「連立政権はイラク紛争が合法的なものであったかどうかということについての見解を表明したことはない。しかしそのことは政府の個々の要員が個人の見解を表明してはならないと言うことを意味しない。」とキャメロン首相のスポークスマンが言った。

 しかし、ロンドン大学のフィリップ・サンズ教授などの国際法学者は、水曜日の副首相の言説には、下院において政府を代表して発言していたのだから、法的な意味があると言った。

 「議会の中での政府の閣僚の法的状況に関する公的な言明は、イラク戦争が合法的なものであったかどうかについての見解を形成する際に、国際法廷が関心を持つ言明になるかも知れない。」とサンズ教授はガーディアン紙に語った。

 自由民主党の指導者であるクレッグは自らの党の長い歴史を持つ戦争反対の意見を実質上声に出したのであったが、その一方でキャメロンは保守党の多数派と同様にブレア政権と一緒になって2003年の対イラク戦争に支持の投票をしたのである。

 息子のトムがイラクで殺されたレッグ・キーズは下院でのクレッグの発言を根拠にしてブレアに対する訴追を開始する準備をすると言った。

 「楽しみにしていますよ。非常に満足がいくことになりそうなので十分な資金を集められるか真剣に検討します。」とキーズはデーリー・メール紙に語った。

 2003年のイラク侵攻時の国防委員長のボイス上院議員も、誰が訴追を受けようとも、前線の兵士ではなくブレアでなければならないと示唆した。

 「法務長官はイラク戦争は合法的であると私に断言しました。私はその書類を持っています。もしも訴追が行われるならば、そう断言したことは、ブレア氏が兵士たちの面前で被告人席に着く事から始めなければならないと言うことなのです。」

 イラク検証委員会に提出された証拠が示すところでは、ゴールドスミス法務長官は国連決議1441号が「国連安全保障理事会によってさらに決議がされないのであれば軍事力行使の権限を与えるものではない」と政府に前もって助言していたのだが、その後のイラク侵攻直前になって対イラク戦争の合法性についての考えを変えていた。

2010年4月29日木曜日

イラク戦争は国際法違反・オランダ独立調査委員会報告

1月12日、オランダ政府が任命した独立調査委員会報告(ダービッズ・レポート)が公表されました。その結論部分の日本語訳です。特に7、18、20などが重要だと思います。
7.では「米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。」としています。


オランダ政府がイラクのフセイン政権打倒を支持するという間違った行動をしたことを認めているのです。

18.では「1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。」

「国連安全保障理事会第1441号決議の文言は…イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。」としています。

1990年代と対イラク開戦直前の国連決議によっては対イラク軍事行動は正当化できないと断言しているのです。20.では、対イラクの軍事行動は、「その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。」と明言しています。対イラク戦争は国際法違反であったと宣言しているのです。

この報告書はオランダの世論がイラク戦争に圧倒的に反対していたことも認めています。そしてオランダのみならず、世界の反戦運動の重要な成果であると思います。ここから、そんな国際法違反をやった政治指導者たちの戦争責任を追求する闘いへの進む根拠にすることができると思います。ブッシュ、ブレア、小泉たちです。すでにブレアは国会に召還されました。日本でもイラク、アフガニスタン侵略・占領の戦争責任を追及する闘いを進めましょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

オランダ政府・独立調査委員会報告書(ダービッズ・レポート)

2010年1月12日公表
http://download.onderzoekscommissie-irak.nl/conclusions_rapport_commissie_irak.pdf

結論
1.イラク戦争に対するオランダの政治的支持に関する決定についての調査がもっと早く行われているほうが好ましかっただろう。

2.グレーン・リンクス(緑の党)とその後のSP(社会党)をのぞいて下院に議席を持つ全ての政党が国連安全保障理事会によって認められなかった要素も含めて1991年から2001年2月までの米国・英国による対イラク軍事行動を支持した。その期間、反対の声を上げる閣僚もいて1998年末の砂漠の狐作戦に閣内で反対意見があったが、全てのオランダの政権は政党構成に関わりなくその軍事行動を同様に支持した。世論は反対意見が顕著であった。

3.2002-2003年の期間、オランダ国内でイラク問題に関する論争が、騒然とした社会的政治的状況の中で起こった。この不安定な政治情勢の下で、オランダは国内問題に心を奪われていた。その結果、この問題は一定の範囲のメディアによって取り上げられたにもかかわらず、イラクについての大きな世論の論議は起こらなかった。

4.対イラク戦争に軍事的には参加しないというオランダ政府の決定は当時の世論調査に反映されたオランダ国民の大多数の意見と一致していた。国連安全保障理事会によって命じられていなかったという事実があるにもかかわらず対イラク戦争に政治的支持を表明するという決定は、世論調査に反映したオランダの世論の多数意見とは一致していなかった。

5.2002年8月はじめに、デ・ホープス・シェッフェル新外務大臣は、イラク問題について外務省職員に助言を求めた。この相談は、この問題に関する下院議会に対して外務大臣が最初に書いた演説文書の中に書かれている政治原則の基礎となった(2002年9月4日)。内閣も、バルケネンデ首相も、コルサルス国防大臣も、この演説文書について事前に相談を受けていなかった。この演説文書は政府の政策の基礎となり、最終的には2003年3月18日の政策文書の中に示された。

6.首相はイラク問題に関する議論をほとんどか全くリードしなかった。首相はイラク問題を全部外務大臣に任せてしまった。2003年1月になってやっと、首相はこの問題に強い関心を持った。しかしながら、その時までに、外務大臣によって明示された立場は政府の政策として確固として確立されていた。

7.当初、オランダは米国・英国の立場と同一歩調を取り、その結果イラク侵攻に至ることとなった。しかしながら、オランダは米国によって主張された体制変革戦略には国際法の根拠がないという見解を有していた。従ってオランダの政策は、イラクが保有していると推測されていた大量破壊兵器(WMD)の中和化とその後の国連安全保障理事会決議の遵守に向けられ続けた。しかしながら、米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。

8.2002年8月に外務大臣によって定められた政策原則の中で、国際法の下での正当性の問題は副次的なものであった。同様に、情報機関や兵器査察報告によって提供される情報を重視することは不十分であった。

9.オランダ政府と連立与党は2002年9月に採用された立場を維持すると確固として決意していた。すなわち、対イラク政策について政府と議会の間で十分な意見交換はしない、ということである。

10.イラク問題はPvdA(労働党)とCDA(キリスト教民主党)の間の連立協議では大きな扱いを受けなかった。バルケネンデとボスは米国と英国によるイラク侵攻への政治的支持を表明するという政府の決定をPvdAが支持することに関する明確な合意に達しなかった。

11.2003年3月17、18日に開催された閣議において、「政治的支援」の明確な意味は明らかにされなかった。それが誤解への扉を開いた。その範囲は3月18日に下院に提出された声明文が「政治的支援」についての明確な言及を含んでいなかったという事実によって広げられた。しかしながらこの言葉は以降の下院での論争の中で使われたのである。

12.2008年3月17日、バルケネンデはボス(PvdAの指導者で連立政権のパートナーの見込みであった)に、オランダは米国が主導する「有志連合」の一員の中に入れる行動は取らないと知らせた。とはいえ、オランダが有志連合のリストに挙げられていたという事実は外務大臣が自らの要請する指示をワシントンのオランダ大使に送らなかったことが原因である。

13.米国はオランダと他の諸国が表明した政治的支持から利益を得たのは、それが地球規模でのイラク侵攻に対する支援(有志連合)を増やしたからである。米国はオランダの政治的、(国防軍の)軍事的支援を獲得するのにたいして大きな圧力をかける必要はなかった。オランダは政治的支援と軍事的支援の間に明確な区別を付けていた。しかしこの区別はアメリカには必ずしも認識されていなかった。

14.イラク侵攻を支持するという決定は主に国際政治上の考慮に基づいて行われた。第一に、主要にはNATO加盟国間の暗黙の連帯が考慮された。第二に、オランダの対イラク政策を継続したいという願望があった。しかしながらそのような継続というものは、2003年までに米国と英国が追求していた目的が、1990年代に追求していたものとは大いに異なっていたのだから、疑わしい。米国と英国は、侵攻をねらった行動を取ることから、外国がイラクを占領する結果になる侵略へと移行していたのである。

15.本委員会は米国、英国によるイラク侵攻に対する政治的支持の表明がオランダの通商上の利益が動機となって行われたという証拠は発見できなかった。しかしながら、それはオランダの経済界が戦後のイラクで公平な競争の場が存在することで利益を手に入れそうな事例であった。

16.EU内部で意見が二分していたために、EU全体の一致した立場というものは取れそうもなかった。米国と英国に賛成する立場を取ることによって、オランダは、主として一方の英国と他方のドイツ及びフランスの間に立つことを望まれる仲介者としての立場を果たす可能性を失った。本委員会が検証した期間で「大西洋岸の反応」がヨーロッパを中心とした反応へと広がった。

17.NATOの内部では、オランダは米国・英国の立場を取った。オランダはトルコに対する防衛力を提供するのに賛成する合意を取る試みを支持した。しかし、オランダはアメリカの要請に応えてすでに初期段階でパトリオット・ミサイルをトルコに提供する時には単独行動を取った。

18.1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。一定の曖昧な表現は存在するが、国連安全保障理事会第1441号決議の文言は(オランダ政府が行ったように)イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。

19.オランダはいわゆる「第2の決議」を非常に重視するとたいへん明確にしていたが、この立場はオランダ政府が第2の決議が政治的には望ましいが法律的には絶対に必要なものではないと首尾一貫して付け加えたために抑えられた。

20.オランダ政府が第2の決議は「政治的には望ましいが、法律的には絶対に必要なものではない」と何度も繰り返した見解を擁護することは容易ではない。国連安全保障理事会第1441号決議の文言と範囲はそのような第2の決議として解釈することはできない。従って、その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。

21.外務省の中で採用された国際法の解釈は徹底した最新の法的分析に基づいたものではなかった。イラクに対する武力の行使の正当性に関して外務省内部に意見の相違が存在したことは極めて不幸なことであった。

22.一般に、調整が行われなければならない―たとえば改善した組織体制の形態によってである―国際法に基づいた助言が外務省内部とそれに続いて政府全体によって政策決定のプロセスで適切に考慮されるように確実にするためである。そのような調整はオランダの外交政策の長い伝統と国際法の支配の発展を推進するというオランダ政府の憲法上の義務に合致しなければならない。

23.2003年初めに、オランダはイラクが武装解除をしたかどうかを確認するためにより多くの時間を武器査察官に与えることに賛成しなかった。

24.オランダは米国に対して、国連がイラクの戦後の安定と再建に顕著な役割を与えられることを受け入れるように要請した。オランダ政府は米国が紛争終結後の段階の準備をしていないことを知っていたにもかかわらず、そのことがイラク戦争に対する政治的支持を与える決定をする際に何の役割も果たさなかった。

25.オランダ政府はUNMOVIC[イラク問題に関する国連監査検証査察委員会]によおる報告の解釈を取捨選択した。そのために、外務省はUNMOVIC報告の微妙な表現を反映させなかった。

26.オランダの情報機関の内部では、AIVD(情報治安総局)もMIVD(軍情報治安局)もイラクのWMD[大量破壊兵器]計画に関する独立の情報源の情報を大して持っていなかった。どちらの情報局も、大部分は国連武器査察官の報告と外国の情報機関から提供される情報をもとにして評価を下していた。

27.MIVDはまず入手した情報を独自の軍事技術分析にゆだねた。その分析と関連して、イラクのWMD使用能力は限られたものであることが強調された。しかし、2003年初め以後は、入手される情報をそれ以上に批判的に分析することはおこなわれなかった。

28.AIVDはイラクのWMD計画の内部分析をほとんど行わなかった。しかしながら、AIVDはその非拡散の任務と関連してオランダ国内でイラクが調達しようという試みの監視はしていた。

29.この時期全体を通して、MIVDとAIVDはイラクのWMD計画による危険の分析については、政府の閣僚が下院に伝えていたものよりも控えめであった。

30.WMDに関してAIVDと特にMIVDによって作成された報告は他の国の公開された報告よりも微妙な表現をしていた。こうした微妙な表現は関係閣僚や省庁には反映されず、むしろ、閣僚や省庁はすでに採用された立場と一致した情報局報告の記述から引用をした。イラクのWMD計画を描く際に、オランダ政府は相当程度米国や英国の公的及び他の情報に導かれた。

31.戦争前には、イラクのWMD計画による脅威に関して下院の中で重要な議論は行わなかった。戦争後、WMDが発見されず、他の諸国の情報機関の活動についての批判的な報告が現れ始めて、やっとその論議が本格的に始まった。実際に論議が始まってみると、政府の下院に対する説明は、AIVDとMIVDがそれらの情報機関が実際にしたよりもっと大きな役割をしたせいだとした。

32.議会の情報治安機関委員会(「治安委員会」)との議論の中で、政府はMIVDとAIVDによって作成された報告の微妙な部分にはふれなかった。委員会によって報告された事実とは反対に、国防大臣は、AIVDとMIVDの報告が、省庁によって作成された公的な声明に一致しないと断言した。

33.政府は、イラクに国連安全保障理事会第1441号決議を満たさせるための軍事力動員の計画への協力に関する、2002年11月15日のアメリカによってオランダになされた要請の内容を議会に十分には明らかにしなかった。

34.カンプ(国防)大臣とデ・ホープス・シェッフェル(外務)大臣によってなされた米国の要請についての説明が、軍事介入に関する内閣の議論や、2003年3月25日にデ・ブアー副大臣の書いた説明とは異なっていることから、イラク侵攻の直前まで、米国がオランダに要請したことと、米国の要請に関して従うべき政策について混乱が存在した。直接関与をしていない閣僚は米国の要請の性質と内容を十分には知らされていなかった。

35.米国の要請に応えて適用するオランダの支援の性格に関する米国との協議の中で、オランダは実際の軍事的支援を提供するどんな決定も、オランダ自身の判断をもとにしなければならないと要求した。従って、オランダは実際の軍事的支援に関しては独立した決定権を保持した。

36.パトリオット・ミサイルが純粋に防衛的なものであると見なすという状況の中では、オランダ政府が攻撃兵器と防衛兵器の区別をしても、疑わしいことである。

37.オランダ政府は、2003年2月17日(実際の支援が始まった日)の声明文の前に、オランダ王国の条約上の義務を満たすにあたっての米軍受け入れ国支援協定の条文について議会に対して何の情報も提供しなかった。もっと早く情報を伝えなかったことは、適切な時期に議会に情報を伝えるという政府の約束に反するものであった。

38.不朽の自由作戦[2001年10月7日、米軍・英軍が開始した対アフガニスタン軍事作戦]に関連して、オランダのフリゲート艦ヴァン・ネス号が、米国軍・英国軍の侵攻兵力の増強に参加する艦船を護衛するためにアラビア半島沖の国際海域に数回派遣された。フリゲート艦を派遣することで、オランダは国際的な軍事作戦の信頼されるパートナーとしての声望を守ろうとしていた。オランダの潜水艦ワルラス号は連合軍の増強には全く関与しなかった。

39.本委員会はオランダがイラク侵攻(の準備)に積極的な軍事的貢献をしたといううわさを裏付ける証拠を見つけられなかった。

40.2003年3月22日にカタールで米国のフランクス将軍によって開かれた記者会見にオランダの士官が出席していたことは誤解と間違った指示の結果であった。問題となった士官は非難されるべきではなかった。国防省の組織的な欠陥から生まれた誤解である限り、カンプ国防大臣に政治的責任があった。

41.国防省は、イラク戦争開始の直前ではなく、もっと早くオランダ軍の交換士官を英国の軍艦から撤収させることが望ましかったであろう。そうすればオランダ海軍に対して引きおこされた不必要な怒りは避けられただろう。

42.2003年3月17日に、対イラク軍事作戦のためにフリゲート艦を「名称変更する」などのアメリカによる多数の目立った要請には応じないと決定された時、政府はPVDAの見解を受け入れていた。

43.閣内では、能動的な軍事的参加を控えるために引き合いに出された理由には、軍事攻撃支援を米国は要請していないことや、参戦に国民の支持がないことが含まれていた。下院では、政府は参戦に国民の支持がないことを強調した。

44.コック第1次内閣とコック第2次内閣を代表し、オランダ憲法100条の適用とオランダ軍の参戦に関する2001年の評価枠組みについて下院の検証を行っている時期に出された内閣声明は、いくつかの点で互いに矛盾し合い、必ずしも明確なものではなかった。たとえばイラク問題の討議の関係では、憲法100条は下院が政府の決定を承認する権利を与えていると決めてかかられる時もあったが、その一方ではこの場合には当てはまらないと(正しく)表明されることもあった。

[(訳注)オランダ憲法100条:外国軍は議会の法律に従わずに配備してはならない。
Article 100: Foreign troops shall not be employed other than pursuant to an Act of Parliament.]

45.政府がトルコ東部へのパトリオット・ミサイルの配備と付随する兵員の配置に憲法100条を適用しなかったのは誤りである。配備がオランダのNATO条約上の義務によって避けがたいという主張は条文の文言とその法元の両方に相反する。国防省はいまだに条約上の義務に従って軍事力を配備したり使用することに憲法100条は適用されないという教義に固執している。当委員会はこうした見解を共有しない。

46.憲法100条の文言はオランダの領土上における軍事力の配備ないし利用に関する場合の適用に関しては2通りに解釈できる。しかしながら、2001年の評価枠はこの条項がこのような場合には当てはまらないことを明確に表明している。

47.憲法100条が2003年3月18日の表明によって下院に伝えられた決定に適用できないのは、その決定が軍事力の配備か利用と関係がなかったからである。
48.イラク戦争に対する政治的支持を送るという決定はデ・ホープス・シェッフェル大臣をNATO事務総長に任命するかも知れないことに影響は受けなかった。
49.本委員会は、閲覧に具するいくつかの国家機密文書の機密区分について疑問を持つ。この政策は歴史上の調査や実情調査を過度に妨げると見なされる。当委員会は文書の機密区分が定期的な再検討を受けるようなシステムを導入することを提案する。これは国立公文書館と、教育文化科学省の適切な仕事と思われるだろうし、後者の文書記録がそこに所属する