2010年4月29日木曜日

イラク戦争は国際法違反・オランダ独立調査委員会報告

1月12日、オランダ政府が任命した独立調査委員会報告(ダービッズ・レポート)が公表されました。その結論部分の日本語訳です。特に7、18、20などが重要だと思います。
7.では「米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。」としています。


オランダ政府がイラクのフセイン政権打倒を支持するという間違った行動をしたことを認めているのです。

18.では「1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。」

「国連安全保障理事会第1441号決議の文言は…イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。」としています。

1990年代と対イラク開戦直前の国連決議によっては対イラク軍事行動は正当化できないと断言しているのです。20.では、対イラクの軍事行動は、「その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。」と明言しています。対イラク戦争は国際法違反であったと宣言しているのです。

この報告書はオランダの世論がイラク戦争に圧倒的に反対していたことも認めています。そしてオランダのみならず、世界の反戦運動の重要な成果であると思います。ここから、そんな国際法違反をやった政治指導者たちの戦争責任を追求する闘いへの進む根拠にすることができると思います。ブッシュ、ブレア、小泉たちです。すでにブレアは国会に召還されました。日本でもイラク、アフガニスタン侵略・占領の戦争責任を追及する闘いを進めましょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

オランダ政府・独立調査委員会報告書(ダービッズ・レポート)

2010年1月12日公表
http://download.onderzoekscommissie-irak.nl/conclusions_rapport_commissie_irak.pdf

結論
1.イラク戦争に対するオランダの政治的支持に関する決定についての調査がもっと早く行われているほうが好ましかっただろう。

2.グレーン・リンクス(緑の党)とその後のSP(社会党)をのぞいて下院に議席を持つ全ての政党が国連安全保障理事会によって認められなかった要素も含めて1991年から2001年2月までの米国・英国による対イラク軍事行動を支持した。その期間、反対の声を上げる閣僚もいて1998年末の砂漠の狐作戦に閣内で反対意見があったが、全てのオランダの政権は政党構成に関わりなくその軍事行動を同様に支持した。世論は反対意見が顕著であった。

3.2002-2003年の期間、オランダ国内でイラク問題に関する論争が、騒然とした社会的政治的状況の中で起こった。この不安定な政治情勢の下で、オランダは国内問題に心を奪われていた。その結果、この問題は一定の範囲のメディアによって取り上げられたにもかかわらず、イラクについての大きな世論の論議は起こらなかった。

4.対イラク戦争に軍事的には参加しないというオランダ政府の決定は当時の世論調査に反映されたオランダ国民の大多数の意見と一致していた。国連安全保障理事会によって命じられていなかったという事実があるにもかかわらず対イラク戦争に政治的支持を表明するという決定は、世論調査に反映したオランダの世論の多数意見とは一致していなかった。

5.2002年8月はじめに、デ・ホープス・シェッフェル新外務大臣は、イラク問題について外務省職員に助言を求めた。この相談は、この問題に関する下院議会に対して外務大臣が最初に書いた演説文書の中に書かれている政治原則の基礎となった(2002年9月4日)。内閣も、バルケネンデ首相も、コルサルス国防大臣も、この演説文書について事前に相談を受けていなかった。この演説文書は政府の政策の基礎となり、最終的には2003年3月18日の政策文書の中に示された。

6.首相はイラク問題に関する議論をほとんどか全くリードしなかった。首相はイラク問題を全部外務大臣に任せてしまった。2003年1月になってやっと、首相はこの問題に強い関心を持った。しかしながら、その時までに、外務大臣によって明示された立場は政府の政策として確固として確立されていた。

7.当初、オランダは米国・英国の立場と同一歩調を取り、その結果イラク侵攻に至ることとなった。しかしながら、オランダは米国によって主張された体制変革戦略には国際法の根拠がないという見解を有していた。従ってオランダの政策は、イラクが保有していると推測されていた大量破壊兵器(WMD)の中和化とその後の国連安全保障理事会決議の遵守に向けられ続けた。しかしながら、米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。

8.2002年8月に外務大臣によって定められた政策原則の中で、国際法の下での正当性の問題は副次的なものであった。同様に、情報機関や兵器査察報告によって提供される情報を重視することは不十分であった。

9.オランダ政府と連立与党は2002年9月に採用された立場を維持すると確固として決意していた。すなわち、対イラク政策について政府と議会の間で十分な意見交換はしない、ということである。

10.イラク問題はPvdA(労働党)とCDA(キリスト教民主党)の間の連立協議では大きな扱いを受けなかった。バルケネンデとボスは米国と英国によるイラク侵攻への政治的支持を表明するという政府の決定をPvdAが支持することに関する明確な合意に達しなかった。

11.2003年3月17、18日に開催された閣議において、「政治的支援」の明確な意味は明らかにされなかった。それが誤解への扉を開いた。その範囲は3月18日に下院に提出された声明文が「政治的支援」についての明確な言及を含んでいなかったという事実によって広げられた。しかしながらこの言葉は以降の下院での論争の中で使われたのである。

12.2008年3月17日、バルケネンデはボス(PvdAの指導者で連立政権のパートナーの見込みであった)に、オランダは米国が主導する「有志連合」の一員の中に入れる行動は取らないと知らせた。とはいえ、オランダが有志連合のリストに挙げられていたという事実は外務大臣が自らの要請する指示をワシントンのオランダ大使に送らなかったことが原因である。

13.米国はオランダと他の諸国が表明した政治的支持から利益を得たのは、それが地球規模でのイラク侵攻に対する支援(有志連合)を増やしたからである。米国はオランダの政治的、(国防軍の)軍事的支援を獲得するのにたいして大きな圧力をかける必要はなかった。オランダは政治的支援と軍事的支援の間に明確な区別を付けていた。しかしこの区別はアメリカには必ずしも認識されていなかった。

14.イラク侵攻を支持するという決定は主に国際政治上の考慮に基づいて行われた。第一に、主要にはNATO加盟国間の暗黙の連帯が考慮された。第二に、オランダの対イラク政策を継続したいという願望があった。しかしながらそのような継続というものは、2003年までに米国と英国が追求していた目的が、1990年代に追求していたものとは大いに異なっていたのだから、疑わしい。米国と英国は、侵攻をねらった行動を取ることから、外国がイラクを占領する結果になる侵略へと移行していたのである。

15.本委員会は米国、英国によるイラク侵攻に対する政治的支持の表明がオランダの通商上の利益が動機となって行われたという証拠は発見できなかった。しかしながら、それはオランダの経済界が戦後のイラクで公平な競争の場が存在することで利益を手に入れそうな事例であった。

16.EU内部で意見が二分していたために、EU全体の一致した立場というものは取れそうもなかった。米国と英国に賛成する立場を取ることによって、オランダは、主として一方の英国と他方のドイツ及びフランスの間に立つことを望まれる仲介者としての立場を果たす可能性を失った。本委員会が検証した期間で「大西洋岸の反応」がヨーロッパを中心とした反応へと広がった。

17.NATOの内部では、オランダは米国・英国の立場を取った。オランダはトルコに対する防衛力を提供するのに賛成する合意を取る試みを支持した。しかし、オランダはアメリカの要請に応えてすでに初期段階でパトリオット・ミサイルをトルコに提供する時には単独行動を取った。

18.1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。一定の曖昧な表現は存在するが、国連安全保障理事会第1441号決議の文言は(オランダ政府が行ったように)イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。

19.オランダはいわゆる「第2の決議」を非常に重視するとたいへん明確にしていたが、この立場はオランダ政府が第2の決議が政治的には望ましいが法律的には絶対に必要なものではないと首尾一貫して付け加えたために抑えられた。

20.オランダ政府が第2の決議は「政治的には望ましいが、法律的には絶対に必要なものではない」と何度も繰り返した見解を擁護することは容易ではない。国連安全保障理事会第1441号決議の文言と範囲はそのような第2の決議として解釈することはできない。従って、その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。

21.外務省の中で採用された国際法の解釈は徹底した最新の法的分析に基づいたものではなかった。イラクに対する武力の行使の正当性に関して外務省内部に意見の相違が存在したことは極めて不幸なことであった。

22.一般に、調整が行われなければならない―たとえば改善した組織体制の形態によってである―国際法に基づいた助言が外務省内部とそれに続いて政府全体によって政策決定のプロセスで適切に考慮されるように確実にするためである。そのような調整はオランダの外交政策の長い伝統と国際法の支配の発展を推進するというオランダ政府の憲法上の義務に合致しなければならない。

23.2003年初めに、オランダはイラクが武装解除をしたかどうかを確認するためにより多くの時間を武器査察官に与えることに賛成しなかった。

24.オランダは米国に対して、国連がイラクの戦後の安定と再建に顕著な役割を与えられることを受け入れるように要請した。オランダ政府は米国が紛争終結後の段階の準備をしていないことを知っていたにもかかわらず、そのことがイラク戦争に対する政治的支持を与える決定をする際に何の役割も果たさなかった。

25.オランダ政府はUNMOVIC[イラク問題に関する国連監査検証査察委員会]によおる報告の解釈を取捨選択した。そのために、外務省はUNMOVIC報告の微妙な表現を反映させなかった。

26.オランダの情報機関の内部では、AIVD(情報治安総局)もMIVD(軍情報治安局)もイラクのWMD[大量破壊兵器]計画に関する独立の情報源の情報を大して持っていなかった。どちらの情報局も、大部分は国連武器査察官の報告と外国の情報機関から提供される情報をもとにして評価を下していた。

27.MIVDはまず入手した情報を独自の軍事技術分析にゆだねた。その分析と関連して、イラクのWMD使用能力は限られたものであることが強調された。しかし、2003年初め以後は、入手される情報をそれ以上に批判的に分析することはおこなわれなかった。

28.AIVDはイラクのWMD計画の内部分析をほとんど行わなかった。しかしながら、AIVDはその非拡散の任務と関連してオランダ国内でイラクが調達しようという試みの監視はしていた。

29.この時期全体を通して、MIVDとAIVDはイラクのWMD計画による危険の分析については、政府の閣僚が下院に伝えていたものよりも控えめであった。

30.WMDに関してAIVDと特にMIVDによって作成された報告は他の国の公開された報告よりも微妙な表現をしていた。こうした微妙な表現は関係閣僚や省庁には反映されず、むしろ、閣僚や省庁はすでに採用された立場と一致した情報局報告の記述から引用をした。イラクのWMD計画を描く際に、オランダ政府は相当程度米国や英国の公的及び他の情報に導かれた。

31.戦争前には、イラクのWMD計画による脅威に関して下院の中で重要な議論は行わなかった。戦争後、WMDが発見されず、他の諸国の情報機関の活動についての批判的な報告が現れ始めて、やっとその論議が本格的に始まった。実際に論議が始まってみると、政府の下院に対する説明は、AIVDとMIVDがそれらの情報機関が実際にしたよりもっと大きな役割をしたせいだとした。

32.議会の情報治安機関委員会(「治安委員会」)との議論の中で、政府はMIVDとAIVDによって作成された報告の微妙な部分にはふれなかった。委員会によって報告された事実とは反対に、国防大臣は、AIVDとMIVDの報告が、省庁によって作成された公的な声明に一致しないと断言した。

33.政府は、イラクに国連安全保障理事会第1441号決議を満たさせるための軍事力動員の計画への協力に関する、2002年11月15日のアメリカによってオランダになされた要請の内容を議会に十分には明らかにしなかった。

34.カンプ(国防)大臣とデ・ホープス・シェッフェル(外務)大臣によってなされた米国の要請についての説明が、軍事介入に関する内閣の議論や、2003年3月25日にデ・ブアー副大臣の書いた説明とは異なっていることから、イラク侵攻の直前まで、米国がオランダに要請したことと、米国の要請に関して従うべき政策について混乱が存在した。直接関与をしていない閣僚は米国の要請の性質と内容を十分には知らされていなかった。

35.米国の要請に応えて適用するオランダの支援の性格に関する米国との協議の中で、オランダは実際の軍事的支援を提供するどんな決定も、オランダ自身の判断をもとにしなければならないと要求した。従って、オランダは実際の軍事的支援に関しては独立した決定権を保持した。

36.パトリオット・ミサイルが純粋に防衛的なものであると見なすという状況の中では、オランダ政府が攻撃兵器と防衛兵器の区別をしても、疑わしいことである。

37.オランダ政府は、2003年2月17日(実際の支援が始まった日)の声明文の前に、オランダ王国の条約上の義務を満たすにあたっての米軍受け入れ国支援協定の条文について議会に対して何の情報も提供しなかった。もっと早く情報を伝えなかったことは、適切な時期に議会に情報を伝えるという政府の約束に反するものであった。

38.不朽の自由作戦[2001年10月7日、米軍・英軍が開始した対アフガニスタン軍事作戦]に関連して、オランダのフリゲート艦ヴァン・ネス号が、米国軍・英国軍の侵攻兵力の増強に参加する艦船を護衛するためにアラビア半島沖の国際海域に数回派遣された。フリゲート艦を派遣することで、オランダは国際的な軍事作戦の信頼されるパートナーとしての声望を守ろうとしていた。オランダの潜水艦ワルラス号は連合軍の増強には全く関与しなかった。

39.本委員会はオランダがイラク侵攻(の準備)に積極的な軍事的貢献をしたといううわさを裏付ける証拠を見つけられなかった。

40.2003年3月22日にカタールで米国のフランクス将軍によって開かれた記者会見にオランダの士官が出席していたことは誤解と間違った指示の結果であった。問題となった士官は非難されるべきではなかった。国防省の組織的な欠陥から生まれた誤解である限り、カンプ国防大臣に政治的責任があった。

41.国防省は、イラク戦争開始の直前ではなく、もっと早くオランダ軍の交換士官を英国の軍艦から撤収させることが望ましかったであろう。そうすればオランダ海軍に対して引きおこされた不必要な怒りは避けられただろう。

42.2003年3月17日に、対イラク軍事作戦のためにフリゲート艦を「名称変更する」などのアメリカによる多数の目立った要請には応じないと決定された時、政府はPVDAの見解を受け入れていた。

43.閣内では、能動的な軍事的参加を控えるために引き合いに出された理由には、軍事攻撃支援を米国は要請していないことや、参戦に国民の支持がないことが含まれていた。下院では、政府は参戦に国民の支持がないことを強調した。

44.コック第1次内閣とコック第2次内閣を代表し、オランダ憲法100条の適用とオランダ軍の参戦に関する2001年の評価枠組みについて下院の検証を行っている時期に出された内閣声明は、いくつかの点で互いに矛盾し合い、必ずしも明確なものではなかった。たとえばイラク問題の討議の関係では、憲法100条は下院が政府の決定を承認する権利を与えていると決めてかかられる時もあったが、その一方ではこの場合には当てはまらないと(正しく)表明されることもあった。

[(訳注)オランダ憲法100条:外国軍は議会の法律に従わずに配備してはならない。
Article 100: Foreign troops shall not be employed other than pursuant to an Act of Parliament.]

45.政府がトルコ東部へのパトリオット・ミサイルの配備と付随する兵員の配置に憲法100条を適用しなかったのは誤りである。配備がオランダのNATO条約上の義務によって避けがたいという主張は条文の文言とその法元の両方に相反する。国防省はいまだに条約上の義務に従って軍事力を配備したり使用することに憲法100条は適用されないという教義に固執している。当委員会はこうした見解を共有しない。

46.憲法100条の文言はオランダの領土上における軍事力の配備ないし利用に関する場合の適用に関しては2通りに解釈できる。しかしながら、2001年の評価枠はこの条項がこのような場合には当てはまらないことを明確に表明している。

47.憲法100条が2003年3月18日の表明によって下院に伝えられた決定に適用できないのは、その決定が軍事力の配備か利用と関係がなかったからである。
48.イラク戦争に対する政治的支持を送るという決定はデ・ホープス・シェッフェル大臣をNATO事務総長に任命するかも知れないことに影響は受けなかった。
49.本委員会は、閲覧に具するいくつかの国家機密文書の機密区分について疑問を持つ。この政策は歴史上の調査や実情調査を過度に妨げると見なされる。当委員会は文書の機密区分が定期的な再検討を受けるようなシステムを導入することを提案する。これは国立公文書館と、教育文化科学省の適切な仕事と思われるだろうし、後者の文書記録がそこに所属する