2010年4月29日木曜日

イラクの労働者は支援を必要としている

イラク最大の石油地帯のバスラでイラク石油労組がストライキ闘争で闘っています。マリキ政権は活動家の不当配転などの弾圧をかけてきています。


アメリカのAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産別会議)はイラクの石油をはじめとした労働者への支援・連帯を訴えています。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

バスラにおける石油労働者の抗議行動

イラク・石油レポート スタッフ  2010年2月8日

【バスラ】イラク南部の数百人の石油労働者が超過勤務手当の支払いや降格に関する使用者側との論争の後抗議行動を開始し、組合指導者は燃え立って大幅に遅れている労働法の制定を要求している。

それはイラクの労働者と労働者を認めるのを拒否している政府との間の進行中の紛争の最新の者であり、特に石油産業部門への海外からの投資にとって重大なリスクになるかもしらない。

バスラの石油組合の匿名の組合員が1月31日に語ったところでは、この地域の何百人もの石油労働者と精油所技術スタッフたちが自分たちの敷地で1月31日に抗議行動を行った。

イラクの石油労働者と石油省は緊迫した関係にあった。労働組合はいまなお非合法であり、法律の一つはサダム・フセイン時代からの巻を続けている。労働者は労働者は抗議行動をして労働者の要求と石油法案を含む政策に反対してストライキを継続した。

イラク石油労働組合議長の公式声明

ハンサン・ジュマ・アワド イラク石油労働組合連合議長

支援の呼びかけ

神をも恐れないバース党の残党が政治プロセス全体を破壊し統一政府を結びつける(?)法律を標的にするために疑わしい動きを開始したことが明らかになってからのことである…

今回は、イラク国民議会選挙の1ヶ月前に、南部精油所会社の経営者が石油省から来たと主張して経営側の命令を強制し始めた。我々は、これは仕組まれたものだと確信する。こうした命令は労働者とその家族の食糧配給を削減し、残業時間を止め、他の財政上経営上の圧力に加えて労働者を降格するといったことで構成されている。奇妙なことに、バース党員の息子やそのいとこや親族である労働者のグループを任用することを経営者は認めた。このような不当な行為に沈黙を続けることなど可能だろうか?バスラ州当局者、州知事、副州知事、州議会議長、州議会議員、そして正義と責任委員会が抑圧されている人々と共に声を合わせて権利を取り戻すことを願う。我々南部石油会社精油所の労働者は以下のように我々の要求を要約する。

1.最近任命され3ヶ月の間その地位に就いていたこの会社の社長はあらゆる幹部から指摘されているとおり会社の経営には無能であり、首をすげ替えるか解雇すること。

2.専務取締役と財政部理事から初めて人事担当と部門幹部に至るまで首をすげ替えること。なぜなら、彼らは会社の経営と財政の運営を失敗したことを身をもって示したかあらである。

3.無用のものとなった会社の経営委員会を解散すること。

我々は全ての当局者に対して我々を助けるように繰り返し求め、我々と同じ立場に立つように要請する。そうしなければ我々は連続した抗議行動と集会を組織するだろう。それは生産ラインを正しい軌道に戻すためであり、我々が会社の経営を担当してきたバース主義者やご都合主義者たちの安易な標的にならないためである。

バスラの労働者のストライキとデモ

イラク石油レポートスタッフ  2010年3月23日

【バスラ】バスラのイラク南部製油会社は、南部製油会社の経営陣の大刷新と賃金引き上げの要求に関する交渉が決裂した後、水曜日[3月24日]にストライキに突入する予定である。

しかしながら、治安部隊が南部製油会社に終結しつつあり、ストライキを決行するとストライキ参加労働者が逮捕されることを恐れて、ストライキを中止しようとする組合員もいた。

これはイラクで2番目に大きい精油所における一連の労働争議の最新のものである。イラクの石油労働組合は今も存続しているサダム・フセイン時代の法律の下で禁止されているが、より良い賃金と労働条件を要求してきた。しかしながら、石油省は財務大臣によって権限を委譲されている精油所は要求をするためには間違った標的だと言った。

この2、3ヶ月の間に、労働者と経営者は交渉を行い、しばしば合意に近づいたが、その後、決裂してしまった。ストライキは2月に予定されていたが、交渉が再開した後中止された。

先週、バスラ西方16キロの日量15万バレルの精油所で700人者労働者が3時間のストライキを打った。

彼らは南部製油会社のアブドル・フセイン・ナシル社長とカリーマ・フセイン・ザジール財務理事の解任を要求した。彼らは会社の経費のうち現行の70%ではなく80%を労働者の賃金に回すことと、労働時間中の食料の消費代金を支払うことと、労働時間の短縮を要求した。

「会社の理事会は会社のスタッフから選ばれた2人と石油省の8人で構成されています。」とイラク石油労組連合のハッサン・ジュマ議長は言った。

「我々は、会社のスタッフから2人しか選ばれていないのは十分ではないと考えています。この体制はいまだに旧政権時代と同じ法律の上で運用されているのです。」とジュマは言った。
連帯センターがイラクの精油所における反組合の動きを非難する

イラクの国家の至る所で民主的な改革が行われているにもかかわらず、マリキ政権はサダム・フセイン時代にまでさかのぼる反労働者的な法律を積極的に実行している。近年では、相当多数の労働者が、組合を結成したり抗議行動に参加したために、解雇されたり脅迫を受けたり嫌がらせを受けたり、処罰を受けてきた。―この同じマリキ政権は国際労働機構の基準とILO条約にリップサービスをしてきたという事実があるにもかかわらず、である。

直近のその実例は、4月1日に―精油所の労働組合と経営者の間の交渉と争議が数週間あったすぐ後である―政府所有の南部石油会社はイラクのバスラに基盤を持つ精油所労働組合の4人の著名な指導者を組合委員長と副委員長を含めて、精油所の勤務から会社の他の新しい部署に配転したことである。

この配転が組合つぶしを動機としたものであることは疑いがない。精油所の労働者は2月25-26日、3月2日、3月18日に波状座り込みストライキを打ち、続いて3月28日に賃上げと2007年、2008年、2009年から労働者が所有する手当の公正な支払い、臨時雇用労働者の常雇用化、腐敗の監視、生産化以前のための地域の経営の改善、そして労働組合の正式な認知を要求した。

「権利獲得を主張する平和的なデモを組織し開催したために労働者を処罰するということがイラクでは不幸なことに普通に行われています。」と連帯センターの暫定理事長のナンシー・ミルズは指摘した。「イラクは、組合の団結権や団体交渉権を禁止する時代遅れの反組合的な労働法を、労働者の根本的な民主的権利を認める新しい法律に今回限りですぐに取り替えることが必要です。」

精油所労働組合は産別組合のイラク石油労組連合(IFOU)の加盟団体である。

配転命令を受けた組合指導者は、イブラヒム・ラドヒ精油所労働組合委員長・IFOU副議長、アラー・サバーフ・ミリエ精油所労働組合副委員長・IFOU中央評議会議長、ファラジ・ルバート・ミズバ精油所労組組合員・IFOU中央評議員・メディア部長、ケザール・カドヒム精油所労働組合員・活動家である。
「この行為は全組合員が自らの基本的権利を要求しても(懲罰)配転を受けると感じさせるものである。」とハッサン・ジュマ・イラク石油労組連合議長が本日はじめの声明で言った。

精油所労働組合とIFOUはこの懲罰的な配転に対決し、南部石油会社とイラクの経済全体で組合に対するこうした攻撃を終わらせるように要求するために、手紙や他の形態の平和的な抗議行動によって国際的支援をするように呼びかけている。
###

イラクの労働者はあなたの支援を必要としている

AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産別会議) 2010年4月

連帯センター役員のエリン・ラッドフォードが、団体交渉権や他の職場の権利を要求して闘っているイラクの労働組合指導者たちを支援する行動をもとめてこの要請を私たちに送付してきた。

イラク全土の労働者は民主主義を望んでいるにもかかわらず、労働組合を結成したために嫌がらせや脅迫や刑事責任の追及さえ受けてきた。しかし、イラクの労働組合は反撃し続けている―そして彼らはあなたの支援を必要としている。

イラクの1987年の労働法は団体交渉権とストライキ権と最低賃金の権利を無効にした。それは全ての公的部門の労働者(労働者の約90%)を「公務員」と分類し直し、組合結成を禁止した。イラク政府はこの時代遅れの法律を強制する道を選び、労働組合との交渉を拒否し、労働組合を「非合法」であると宣言したのである。

あなたは、公正で正当な労働法を要求する国際署名に署名することで行動することができる。あるいは、イラク大使館に手紙を書こう。連絡の情報はここをクリックしてもらいたい。こちらには、労働者のキャンペーンに関するバスラのハシュミヤ・ムッシーン・アル・サーダウィ電気労働者組合議長の素晴らしいインタビューがある。

国際労働基準に沿った労働法の保護がなければ、イラクの労働者と彼らの労働組合は搾取と国際的に認められた労働者の権利の侵害を常に受ける。これに対して、イラク全土―バスラからイラクのクルディスタンに至るまで―の労働者と労働組合が共に抗議に立ち上がっている。国際労働組合連合の支援を受けて2009年11月に始まったイラク労働者キャンペーンは、イラクの労働者と労働組合に労働現場での根本的な権利を保障し、自由で独立した労働組合の結成を認める公平で正当な労働法を制定するようにイラク政府に要求している。このキャンペーンはまた、しばしば恐るべき個人的な危険に直面する宗教、政治、民族、地域の分裂の架け橋になろうとする先駆的な試みでもある。

※訳注:国際労働組合総連合(ITUC):2006年それまでの国際自由連合(ICFTU)、国際労連(WCL)などが統一して結成。世界155カ国・地域、311組織を通じて1億7500万人が加盟

すでにこのキャンペーンは顕著な成功を収めている。約85人の国会議員が、地域組織や経済界や政治の指導者と共にキャンペーンのアピールに署名している。重要な役割を持つ議会の起草委員会はキャンペーンの調整グループと協議を持ち、国会議員が国会で法案を議論するための申請をしている。

AFL-CIOはイラク労働者の基本的な労働者の権利と職場の民主主義を要求する闘いを長年支援してきた。昨年の秋には、AFL-CIOの連帯センターはイラクの5つの労働組合の指導者をワシントンDCに連れて行き、AFL-CIOの指導者と米国政府の政策担当者と共に彼らの闘いに焦点を当てた。イラクの労働者はまた、ピッツバーグのAFL-CIO大会に出席し、そこでAFL-CIOはイラクに関する最新の決議を採択した。AFL-CIOはこのキャンペーンを通じて労働者の権利獲得のためのイラク労働運動の最近の奮闘を強力に支援している。

しかしながら、この4月2日に、イラク政府はイラクのバスラにある精油所労働組合の委員長と副委員長を含む4人の著名な指導者の現在の職場からの即時配転を命令した。この配転は、この労働組合の活動家に対する懲罰として発表されたようである。それは、労働組合と精油所経営者との間の数週間にわたる交渉と争議の直後に行われたのである。

「権利獲得を主張する平和的なデモを組織し開催したために労働者を処罰するということがイラクでは不幸なことに普通に行われています。」と連帯センターの暫定理事長のナンシー・ミルズは指摘した。

 イラクは、組合の団結権や団体交渉権を禁止する時代遅れの反組合的な労働法を、労働者の根本的な民主的権利を認める新しい法律に今回限りですぐに取り替えることが必要である。

アラウィは石油法制定を最優先

「イラク国民議会選挙」で第一党となったアラウィはイラクの石油をグローバル資本に売り飛ばすイラク石油法の早期制定をねらっています。(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

イラク炭素化合物法[石油法]を優先する:アラウィ

ガルフ・インザ・メディア 2004年4月1日

イヤド・アラウィ元イラク首相は昨日、最近数ヶ月に全世界的な石油メジャーと結んだ契約を尊重し、彼の政治ブロックが政府を結成すれば新しい炭素化合物法[石油法]を制定するように早急に動くと語った。

しかし、自らの宗派横断的なイラキヤ連合が3月7日の国民議会選挙で最大の議席を獲得したアラウィは、契約は小さな修正が必要かもしれず、イラクのエネルギー部門ではもっと競争があってほしい、と述べた。

 「我々は全ての契約を尊重する。我々が全ての合意を尊重するのは、それがとても重要なことだと確信しているからだ」とアラウィは語った。イラクは、何年間もの放置と戦争のあげく荒れ果てた油田を一新するために、石油メジャーに数十億ドルの契約を与えた。バグダッドの目標は石油生産能力を現在の日量250万バレルから約6年間で日量1200万バレルに拡大することである。

 こうした契約はイラクを全世界の石油生産国の中でトップランクへと飛躍させるかもしれない。戦争でひどく荒廃したこの国は世界3位の石油埋蔵量を持つが、世界第11位の石油生産国に過ぎない。この契約に参加した企業には米国の石油メジャーのエクソンモビール社やヨーロッパ最大の石油企業のロイヤル・ダッチ・シェル社や、それにロシアのルクオイルと中国石油天然ガス集団[中国の国有石油大手会社]が入っている。

アラウィはイラクにはエネルギー部門を管理する石油ガス法がイラクにないことを嘆き、法案を国民議会に上程するように早急に動くと言った。「それが優先事項であることは明らかだ。」、「時間は長くかからない。」とアラウィは言った。2004年から2005年にイラク暫定政府を率いた彼は、ヌーリ・アル・マリキ首相が首班であった政府が契約を結んだやり方について「強く保留」すると言った。

「しかし、契約は調印された。我々はそれを妨げてはならないし、尊重しなければならない。おそらくあちこちを少しは修正するだろうが。」とアラウィは言った。どのような修正をするのかと聞かれて、彼は契約がイラク側から「完全な状態」で扱われたかどうかということについて懸念していると言った。彼はまた、石油ガス部門がもっと競争に道を開くようにしたがった。

 アラウィは、石油相だけよりも、石油ガス部門を監督するために首相として彼が設置したものに似た炭素化合物[石油天然ガス]専門家会議の方が望ましいと言った。「我々は結局は経営者であるよりは調整者としての石油省を持ちたいのであり、経営は民間部門と投資者によって指揮されなければならない。」「他の企業がイラクに参入する余地は多い。我々には大規模な投資が必要だ。」とアラウィは言った。

彼は中央政府が同意をしないで、バグダッドと半自治的な北部のクルディスタン地域を含む石油産業の発展を妨げたと非難した。クルド政府とバグダッドはイラクのクルディスタンが独自に外国の石油企業と署名したが中央政府が非合法であると言っている石油の契約について何ヶ月も論争をしてきた。

クルディスタン地方政府とバグダッドが収入と生産分与を巡って争ったために石油輸出は停止された。クルディスタン地方政府の天然資源大臣は1週間前に、新政府が成立すればすぐに石油輸出を開始する用意ができていると言った。

「中央政府とクルディスタン地方政府の間でつまらない争いがあって、この問題のために我々は多くの時間を失ったが、それはイラクの中央政府によって始められたものだ」とアラウィは言った。

アフガニスタン派兵拒否兵士の闘い

IVAW(反戦イラク帰還兵の会)が、アフガニスタンへの派兵を拒否して投獄された反戦兵士が刑期より短い期間での釈放を勝ち取った闘いを報告しています
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

戦争拒否者のトラビス・ビショップがフォート・ルイス基地から釈放される

アフガニスタン戦争を拒否しているトラビス・ビショップが3月25日にフォート・ルイス基地の刑務所から釈放された。トラビスはもともとテキサス州のフォート・フード基地で良心を理由にアフガニスタンへの配備を拒否したために軍法会議において12ヶ月の禁固刑の判決を受けていた。その後、彼はフォート・フード基地の方面総監への情状酌量申請が成功したために3ヶ月短縮の刑期を受け、品行方正で特別刑期短縮も受けた。彼は全部で7ヶ月と12日の禁固刑を受け、また、三等軍曹から兵卒に降格し、未決懲戒除隊となった。

服役中に、トラビス・ビショップはアムネスティー・インターナショナルから良心の囚人として認定され、刑務所の中からブログを書いた。

彼はまた世界中の幾百人もの人々から支援を受けたが、その人たちは彼への激励だけでなく、軍当局に彼の釈放を要請する手紙を書いた。ビショップもフォート・ルイス基地の刑務所のひどい状態について声を上げ、その結果、施設が改善されたものもあっただけでなく、ルイスは刑務所の「最もむずかしい」囚人リストに記載されることとなった。

IVAWは2009年にアフガニスタン占領の継続を非難する決議を採択し、アフガニスタンへの配備に抵抗するトラビスの決意を全面的に支持している。

IVAW・兵士がイラク占領に反対する意義

IVAW(反戦イラク帰還兵の会)が、兵士がイラク占領に反対することの意義をHPに掲載しています。(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

ゲストのブログ投稿:見えないものを見えるようにして石油によって駆り立てられた戦争を終わらせる
ジョセフ・ユーハス、アントニア・ユーハス 2010年3月21日
IVAW(イラク反戦帰還兵士の会)HPから

我々は、父親と娘として、平和のための退役軍人の会の会員と反戦イラク帰還兵士の会の全国諮問委員として、心理学者と石油専門家として、以下の疑問に答えるために、このブログを一緒に書くことに決めた。すなわち、アフガニスタンやパキスタンにおける戦争と同様に、8年目に入ったイラクにおける戦争を終わらせるために、現役兵士と帰還兵士がどのような貢献の方法があるのか?という疑問である。我々は石油のための醜い戦争を始めるために利用された「心理的不可視」という戦術を暴露することの必要性に焦点を当てている。我々の答えは、IVAWが単に同じことをもっとやり続けなければならない、ということである。すなわち、戦争を可視化することなのだ。

私は1965年の春に正規の海軍の大尉としての仕事を辞めた。アジア大陸のおける長期間の地上戦が成功する展望は絶望的なものに見えていた。それ以上に、この敗北しつつある問題に道義的な正当化の根拠がなかったのである。唯一の名誉ある行為とは自らの剣をしまい、新たな人生を探し出すことであった。私は1965年にその結論に達した唯一のアメリカ軍兵士ではなかった。ベトナム戦争に向かう軍隊内部での大規模な辞職と消極的積極的抵抗がベトナム戦争を終わらせる唯一の理由ではなかったが、主要な理由の一つであったことは確かである。米国軍内部での同様の抵抗がもう一度今日の戦争を終わらせる鍵となっている。

我々はブッシュ政権が打ち倒され2008年に顕著な勝利を達成したのであり、「突破だ、そうだ、突破だ!」という選挙運動のスローガンで、イラク戦争を100年間続けるのだと誓った共和党候補は、イラク戦争を終わらせると公約した候補に支持が集まることによって拒否されたのである。残念ながら、政治的勝利の結果は、より広範な世論の中では戦争はすでに終わったのだという意識となり、今までに戦争ははっきりと終わらせられたはずだと考えていた人々にとって幻滅と不信感にさえなってしまった。

我々は、オバマ大統領がイラク戦争を大体(完全ではないにしても)終わらせるという彼の公約を実現する意志を持っていることは確信している。しかしながら、オバマ政権は、中東全体に地上基地を持つ米軍の恒久的な駐留を維持し拡大さえするという前政権から採用されている政策を継続していることも確信している。これは1965年にアメリカがベトナムに介入したのと同じくらい-おそらくそれ以上に-今日では擁護できない不道徳な代物である。中東に米軍が恒常的に駐留すると言うことには多数の目的があるが、その中で優先順位が高いのは、中東の石油と天然ガス資源の拠点獲得の追求である。

戦争の直接の結果として、エクソンモビール社やコノコフィリップス社やオクシデンタル社はこの30年以上でイラクにおける生産契約を受注した最初のアメリカの石油会社となった。エクソンモビール社は世界で2番目に大きい油田の契約を獲得した。イラクでなくても近隣地域で、こうした事業の安全性を確保し、さらに米国の企業が参入するという目的を達成するために、米軍の駐留が要請されそうだ。この契約は歴史的なものではあるが、石油の勝利は達成からはほど遠い。それはイラク国民、ヨーロッパ諸国民、IVAWを含むアメリカ人の継続した組織化の奮闘のせいである。この活動家たちは7年間にわたって石油問題に明るいスポットライトをあて、イラクの石油部門を完全な国有から、イラク石油法の制定によって外国の石油企業の所有と支配に道を開くほとんど民営化したシステムに変えようというブッシュ政権と石油企業の試みを妨げたのである。イラク国民が石油企業自身によって大部分が起草されたこの法律の制定に抵抗しただけでなく、契約を求めていた他の多数の米国の会社が、ロシアやアンゴラや中国などの企業が優位となって拒絶されたのである。

残念ながら、大手石油企業の政治的影響力は、バラク・オバマの当選と共に縮小しはしたが、無くなったという状態とはほど遠い。大手石油企業は今も世界で最も豊かな産業であり、政治の政策決定に影響を与える最も多額の「現金」を持っている。その利益は米国の政治体制全体に固く結びついてもいて、たとえオバマ大統領が取り除きたがっても彼と彼の政権はほとんどそんなことはできないほどである。残念ながら再びオバマ政権はそのようなことに対する関心を示しもしなかった。

石油ロビーの圧倒的な経済力は、石油と天然資源が無くなるまで、中東における駐留を維持しようとする抑えることのできない軍事的要求を作り出す。そのような長期の軍事的関与を維持するために、オバマ政権はブッシュの「心理的不可視」戦術を継続することに決めたのである。米国内の戦線では、戦争の真実を隠す平和の幻想が存在する。永久に続く軍事国家を維持する唯一の方法は、戦争が存在しない-すなわち、より正確には、米国本国の国民にとっては経費も結果もかかってこない戦争であると見せかけることである。

米国内の戦線では、これはアメリカの歴史上だけではなく、おそらく世界の歴史上においても、税金が下げられた初めての戦争である。企業にかかる戦争税はなく、戦争から利益を上げるのをやめろという要求はずっと少ない。それは「何も費用のかからない」、つまり「無料」の戦争である。

我々はだまされて、イラクとアフガニスタンで戦った200万人近い兵士と兵士の家族の推定1000万人がほとんど目に見えないかのように行動している。1944年には米国のどの町を歩いても、戦時公債や配給切符や前線に送る燃料を節約するためのマイカーの相乗り通勤といった様子を見ただろう。家々は家庭菜園を開き、大きな金星章が息子を失った家族の窓にかけられていた。今日、同じ通りを歩いて自問してみよう。「これが戦時中の国だろうか?」と。

この不可視性は様々な方法で作り出されている。戦争とは不愉快な現実であり、人々の目をそこからそらすのは簡単だ。徴兵制は存在しない。イラク帰還兵には国民の「帰国祝い」もない-彼らがそのために戦ってきた国に帰っても歓迎されないのである-過去の全ての戦争では、ベトナム戦争でさえ、帰還兵士には高い注目が集まったのに。従って、永続的な戦争を始めることができたのは、誰もそれに気づかないからなのである。そして気がついた人たちは忘れ去られるのである。

 実際にはこれは4兆ドル近くを費やした戦争である。それはどうしても必要とされる人間への社会サービスに対処する能力をオバマ政権から取り上げた。我々はむしろ、世界がかつて知る中で最も豊かな産業に奉仕するのではなくても、明らかに支持して戦争の奨励金を支払っているのである-これが戦争をアメリカ国民から覆い隠すもう一つの理由である。石油大企業はアメリカ合衆国の中で最も憎むべき産業である。それは嫌われていると言うだけでなく、疑われている。その生産物でさえ、生産から、輸送、精製、販売に至るまで、簡単に言って「醜い」のである。従って、この戦争は、実際には特定の敵に対して戦われているのではない。「敵がいない」で我々が戦っているものの真実が公表されていないならば、戦っている「実在の」兵士もいないはずである。これの最も文字通りの結果は、無人飛行兵器の採用の増加と、無人飛行機を操縦する人々も、それによって殺される人々も、人間は誰も参加していない、という神話の永続である。

しかし我々は絶望していない。直近の選挙ではブッシュ政権が打倒された。石油の問題が世論の視野の中に残り、完全に成功したわけではない。より重要なことは、IVAWが「意外な剣の抜き方をする」比類のない力強い立場に立ち、2つの戦線における戦争、すなわち戦場における戦線と米国内の戦線を終わらせる闘いをしていることである。
戦場における戦線では、政府から戦争をする能力を取り上げる手段として消極的、積極的抵抗をするという選択肢のみがある。シェブロン社がカスピ海からの石油の送油を兵士に守らせたくても、兵士が戦うことを拒否すれば、シェブロン社は敗北する。

米国内の戦線においては、IVAWが自らとその会員を可視化しようとしている現在進行中の試みは、今日ではかつて無いはるかに大きな重要性を持っている。-それは戦争が続いていると言うことを明らかにするだけではなく、自らの実例を通じて、勝つことができる闘いであると過去が証明したものを続けるように他の人々を励ますのである。

※ジョセフ・ユーハスは環境心理学者でありコロラド大学の建築環境デザインの教授である。彼は「サイコロジー・トゥデー・マガジン」に定期的にブログを寄稿している。

※アントニア・ユーハスはグローバル・エクスチェンジのシェブロン・プログラムの責任者で、「石油の専制政治:世界で最も強力な産業とそれを止めるためにしなければならないこと」と「ブッシュの政策:世界を侵略する、一度に一つの経済」の著者である

イラク戦争は国際法違反・オランダ独立調査委員会報告

1月12日、オランダ政府が任命した独立調査委員会報告(ダービッズ・レポート)が公表されました。その結論部分の日本語訳です。特に7、18、20などが重要だと思います。
7.では「米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。」としています。


オランダ政府がイラクのフセイン政権打倒を支持するという間違った行動をしたことを認めているのです。

18.では「1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。」

「国連安全保障理事会第1441号決議の文言は…イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。」としています。

1990年代と対イラク開戦直前の国連決議によっては対イラク軍事行動は正当化できないと断言しているのです。20.では、対イラクの軍事行動は、「その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。」と明言しています。対イラク戦争は国際法違反であったと宣言しているのです。

この報告書はオランダの世論がイラク戦争に圧倒的に反対していたことも認めています。そしてオランダのみならず、世界の反戦運動の重要な成果であると思います。ここから、そんな国際法違反をやった政治指導者たちの戦争責任を追求する闘いへの進む根拠にすることができると思います。ブッシュ、ブレア、小泉たちです。すでにブレアは国会に召還されました。日本でもイラク、アフガニスタン侵略・占領の戦争責任を追及する闘いを進めましょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

オランダ政府・独立調査委員会報告書(ダービッズ・レポート)

2010年1月12日公表
http://download.onderzoekscommissie-irak.nl/conclusions_rapport_commissie_irak.pdf

結論
1.イラク戦争に対するオランダの政治的支持に関する決定についての調査がもっと早く行われているほうが好ましかっただろう。

2.グレーン・リンクス(緑の党)とその後のSP(社会党)をのぞいて下院に議席を持つ全ての政党が国連安全保障理事会によって認められなかった要素も含めて1991年から2001年2月までの米国・英国による対イラク軍事行動を支持した。その期間、反対の声を上げる閣僚もいて1998年末の砂漠の狐作戦に閣内で反対意見があったが、全てのオランダの政権は政党構成に関わりなくその軍事行動を同様に支持した。世論は反対意見が顕著であった。

3.2002-2003年の期間、オランダ国内でイラク問題に関する論争が、騒然とした社会的政治的状況の中で起こった。この不安定な政治情勢の下で、オランダは国内問題に心を奪われていた。その結果、この問題は一定の範囲のメディアによって取り上げられたにもかかわらず、イラクについての大きな世論の論議は起こらなかった。

4.対イラク戦争に軍事的には参加しないというオランダ政府の決定は当時の世論調査に反映されたオランダ国民の大多数の意見と一致していた。国連安全保障理事会によって命じられていなかったという事実があるにもかかわらず対イラク戦争に政治的支持を表明するという決定は、世論調査に反映したオランダの世論の多数意見とは一致していなかった。

5.2002年8月はじめに、デ・ホープス・シェッフェル新外務大臣は、イラク問題について外務省職員に助言を求めた。この相談は、この問題に関する下院議会に対して外務大臣が最初に書いた演説文書の中に書かれている政治原則の基礎となった(2002年9月4日)。内閣も、バルケネンデ首相も、コルサルス国防大臣も、この演説文書について事前に相談を受けていなかった。この演説文書は政府の政策の基礎となり、最終的には2003年3月18日の政策文書の中に示された。

6.首相はイラク問題に関する議論をほとんどか全くリードしなかった。首相はイラク問題を全部外務大臣に任せてしまった。2003年1月になってやっと、首相はこの問題に強い関心を持った。しかしながら、その時までに、外務大臣によって明示された立場は政府の政策として確固として確立されていた。

7.当初、オランダは米国・英国の立場と同一歩調を取り、その結果イラク侵攻に至ることとなった。しかしながら、オランダは米国によって主張された体制変革戦略には国際法の根拠がないという見解を有していた。従ってオランダの政策は、イラクが保有していると推測されていた大量破壊兵器(WMD)の中和化とその後の国連安全保障理事会決議の遵守に向けられ続けた。しかしながら、米国・英国の行動の結果が体制変革をもたらすだろうことは不可避であった。オランダ政府は、オランダ政府の政策と一致しない目的を持つ戦争に政治的支持を貸し与えたのである。従って、オランダの立場はある程度不誠実なものであったと言うことができる。

8.2002年8月に外務大臣によって定められた政策原則の中で、国際法の下での正当性の問題は副次的なものであった。同様に、情報機関や兵器査察報告によって提供される情報を重視することは不十分であった。

9.オランダ政府と連立与党は2002年9月に採用された立場を維持すると確固として決意していた。すなわち、対イラク政策について政府と議会の間で十分な意見交換はしない、ということである。

10.イラク問題はPvdA(労働党)とCDA(キリスト教民主党)の間の連立協議では大きな扱いを受けなかった。バルケネンデとボスは米国と英国によるイラク侵攻への政治的支持を表明するという政府の決定をPvdAが支持することに関する明確な合意に達しなかった。

11.2003年3月17、18日に開催された閣議において、「政治的支援」の明確な意味は明らかにされなかった。それが誤解への扉を開いた。その範囲は3月18日に下院に提出された声明文が「政治的支援」についての明確な言及を含んでいなかったという事実によって広げられた。しかしながらこの言葉は以降の下院での論争の中で使われたのである。

12.2008年3月17日、バルケネンデはボス(PvdAの指導者で連立政権のパートナーの見込みであった)に、オランダは米国が主導する「有志連合」の一員の中に入れる行動は取らないと知らせた。とはいえ、オランダが有志連合のリストに挙げられていたという事実は外務大臣が自らの要請する指示をワシントンのオランダ大使に送らなかったことが原因である。

13.米国はオランダと他の諸国が表明した政治的支持から利益を得たのは、それが地球規模でのイラク侵攻に対する支援(有志連合)を増やしたからである。米国はオランダの政治的、(国防軍の)軍事的支援を獲得するのにたいして大きな圧力をかける必要はなかった。オランダは政治的支援と軍事的支援の間に明確な区別を付けていた。しかしこの区別はアメリカには必ずしも認識されていなかった。

14.イラク侵攻を支持するという決定は主に国際政治上の考慮に基づいて行われた。第一に、主要にはNATO加盟国間の暗黙の連帯が考慮された。第二に、オランダの対イラク政策を継続したいという願望があった。しかしながらそのような継続というものは、2003年までに米国と英国が追求していた目的が、1990年代に追求していたものとは大いに異なっていたのだから、疑わしい。米国と英国は、侵攻をねらった行動を取ることから、外国がイラクを占領する結果になる侵略へと移行していたのである。

15.本委員会は米国、英国によるイラク侵攻に対する政治的支持の表明がオランダの通商上の利益が動機となって行われたという証拠は発見できなかった。しかしながら、それはオランダの経済界が戦後のイラクで公平な競争の場が存在することで利益を手に入れそうな事例であった。

16.EU内部で意見が二分していたために、EU全体の一致した立場というものは取れそうもなかった。米国と英国に賛成する立場を取ることによって、オランダは、主として一方の英国と他方のドイツ及びフランスの間に立つことを望まれる仲介者としての立場を果たす可能性を失った。本委員会が検証した期間で「大西洋岸の反応」がヨーロッパを中心とした反応へと広がった。

17.NATOの内部では、オランダは米国・英国の立場を取った。オランダはトルコに対する防衛力を提供するのに賛成する合意を取る試みを支持した。しかし、オランダはアメリカの要請に応えてすでに初期段階でパトリオット・ミサイルをトルコに提供する時には単独行動を取った。

18.1990年代に国連安全保障理事会で採択した対イラク決議は2003年に米国と英国が軍事侵攻する際の権限付与を行ってはいなかった。一定の曖昧な表現は存在するが、国連安全保障理事会第1441号決議の文言は(オランダ政府が行ったように)イラクに安全保障理事会決議に従うことを強制するために安全保障理事会の委任を受けることなく軍事力を行使することを個別の安全保障理事国に認めるものであると合理的に解釈することはできない。

19.オランダはいわゆる「第2の決議」を非常に重視するとたいへん明確にしていたが、この立場はオランダ政府が第2の決議が政治的には望ましいが法律的には絶対に必要なものではないと首尾一貫して付け加えたために抑えられた。

20.オランダ政府が第2の決議は「政治的には望ましいが、法律的には絶対に必要なものではない」と何度も繰り返した見解を擁護することは容易ではない。国連安全保障理事会第1441号決議の文言と範囲はそのような第2の決議として解釈することはできない。従って、その軍事行動は国際法の下では何らの有効な権限付与も受けていなかったのである。

21.外務省の中で採用された国際法の解釈は徹底した最新の法的分析に基づいたものではなかった。イラクに対する武力の行使の正当性に関して外務省内部に意見の相違が存在したことは極めて不幸なことであった。

22.一般に、調整が行われなければならない―たとえば改善した組織体制の形態によってである―国際法に基づいた助言が外務省内部とそれに続いて政府全体によって政策決定のプロセスで適切に考慮されるように確実にするためである。そのような調整はオランダの外交政策の長い伝統と国際法の支配の発展を推進するというオランダ政府の憲法上の義務に合致しなければならない。

23.2003年初めに、オランダはイラクが武装解除をしたかどうかを確認するためにより多くの時間を武器査察官に与えることに賛成しなかった。

24.オランダは米国に対して、国連がイラクの戦後の安定と再建に顕著な役割を与えられることを受け入れるように要請した。オランダ政府は米国が紛争終結後の段階の準備をしていないことを知っていたにもかかわらず、そのことがイラク戦争に対する政治的支持を与える決定をする際に何の役割も果たさなかった。

25.オランダ政府はUNMOVIC[イラク問題に関する国連監査検証査察委員会]によおる報告の解釈を取捨選択した。そのために、外務省はUNMOVIC報告の微妙な表現を反映させなかった。

26.オランダの情報機関の内部では、AIVD(情報治安総局)もMIVD(軍情報治安局)もイラクのWMD[大量破壊兵器]計画に関する独立の情報源の情報を大して持っていなかった。どちらの情報局も、大部分は国連武器査察官の報告と外国の情報機関から提供される情報をもとにして評価を下していた。

27.MIVDはまず入手した情報を独自の軍事技術分析にゆだねた。その分析と関連して、イラクのWMD使用能力は限られたものであることが強調された。しかし、2003年初め以後は、入手される情報をそれ以上に批判的に分析することはおこなわれなかった。

28.AIVDはイラクのWMD計画の内部分析をほとんど行わなかった。しかしながら、AIVDはその非拡散の任務と関連してオランダ国内でイラクが調達しようという試みの監視はしていた。

29.この時期全体を通して、MIVDとAIVDはイラクのWMD計画による危険の分析については、政府の閣僚が下院に伝えていたものよりも控えめであった。

30.WMDに関してAIVDと特にMIVDによって作成された報告は他の国の公開された報告よりも微妙な表現をしていた。こうした微妙な表現は関係閣僚や省庁には反映されず、むしろ、閣僚や省庁はすでに採用された立場と一致した情報局報告の記述から引用をした。イラクのWMD計画を描く際に、オランダ政府は相当程度米国や英国の公的及び他の情報に導かれた。

31.戦争前には、イラクのWMD計画による脅威に関して下院の中で重要な議論は行わなかった。戦争後、WMDが発見されず、他の諸国の情報機関の活動についての批判的な報告が現れ始めて、やっとその論議が本格的に始まった。実際に論議が始まってみると、政府の下院に対する説明は、AIVDとMIVDがそれらの情報機関が実際にしたよりもっと大きな役割をしたせいだとした。

32.議会の情報治安機関委員会(「治安委員会」)との議論の中で、政府はMIVDとAIVDによって作成された報告の微妙な部分にはふれなかった。委員会によって報告された事実とは反対に、国防大臣は、AIVDとMIVDの報告が、省庁によって作成された公的な声明に一致しないと断言した。

33.政府は、イラクに国連安全保障理事会第1441号決議を満たさせるための軍事力動員の計画への協力に関する、2002年11月15日のアメリカによってオランダになされた要請の内容を議会に十分には明らかにしなかった。

34.カンプ(国防)大臣とデ・ホープス・シェッフェル(外務)大臣によってなされた米国の要請についての説明が、軍事介入に関する内閣の議論や、2003年3月25日にデ・ブアー副大臣の書いた説明とは異なっていることから、イラク侵攻の直前まで、米国がオランダに要請したことと、米国の要請に関して従うべき政策について混乱が存在した。直接関与をしていない閣僚は米国の要請の性質と内容を十分には知らされていなかった。

35.米国の要請に応えて適用するオランダの支援の性格に関する米国との協議の中で、オランダは実際の軍事的支援を提供するどんな決定も、オランダ自身の判断をもとにしなければならないと要求した。従って、オランダは実際の軍事的支援に関しては独立した決定権を保持した。

36.パトリオット・ミサイルが純粋に防衛的なものであると見なすという状況の中では、オランダ政府が攻撃兵器と防衛兵器の区別をしても、疑わしいことである。

37.オランダ政府は、2003年2月17日(実際の支援が始まった日)の声明文の前に、オランダ王国の条約上の義務を満たすにあたっての米軍受け入れ国支援協定の条文について議会に対して何の情報も提供しなかった。もっと早く情報を伝えなかったことは、適切な時期に議会に情報を伝えるという政府の約束に反するものであった。

38.不朽の自由作戦[2001年10月7日、米軍・英軍が開始した対アフガニスタン軍事作戦]に関連して、オランダのフリゲート艦ヴァン・ネス号が、米国軍・英国軍の侵攻兵力の増強に参加する艦船を護衛するためにアラビア半島沖の国際海域に数回派遣された。フリゲート艦を派遣することで、オランダは国際的な軍事作戦の信頼されるパートナーとしての声望を守ろうとしていた。オランダの潜水艦ワルラス号は連合軍の増強には全く関与しなかった。

39.本委員会はオランダがイラク侵攻(の準備)に積極的な軍事的貢献をしたといううわさを裏付ける証拠を見つけられなかった。

40.2003年3月22日にカタールで米国のフランクス将軍によって開かれた記者会見にオランダの士官が出席していたことは誤解と間違った指示の結果であった。問題となった士官は非難されるべきではなかった。国防省の組織的な欠陥から生まれた誤解である限り、カンプ国防大臣に政治的責任があった。

41.国防省は、イラク戦争開始の直前ではなく、もっと早くオランダ軍の交換士官を英国の軍艦から撤収させることが望ましかったであろう。そうすればオランダ海軍に対して引きおこされた不必要な怒りは避けられただろう。

42.2003年3月17日に、対イラク軍事作戦のためにフリゲート艦を「名称変更する」などのアメリカによる多数の目立った要請には応じないと決定された時、政府はPVDAの見解を受け入れていた。

43.閣内では、能動的な軍事的参加を控えるために引き合いに出された理由には、軍事攻撃支援を米国は要請していないことや、参戦に国民の支持がないことが含まれていた。下院では、政府は参戦に国民の支持がないことを強調した。

44.コック第1次内閣とコック第2次内閣を代表し、オランダ憲法100条の適用とオランダ軍の参戦に関する2001年の評価枠組みについて下院の検証を行っている時期に出された内閣声明は、いくつかの点で互いに矛盾し合い、必ずしも明確なものではなかった。たとえばイラク問題の討議の関係では、憲法100条は下院が政府の決定を承認する権利を与えていると決めてかかられる時もあったが、その一方ではこの場合には当てはまらないと(正しく)表明されることもあった。

[(訳注)オランダ憲法100条:外国軍は議会の法律に従わずに配備してはならない。
Article 100: Foreign troops shall not be employed other than pursuant to an Act of Parliament.]

45.政府がトルコ東部へのパトリオット・ミサイルの配備と付随する兵員の配置に憲法100条を適用しなかったのは誤りである。配備がオランダのNATO条約上の義務によって避けがたいという主張は条文の文言とその法元の両方に相反する。国防省はいまだに条約上の義務に従って軍事力を配備したり使用することに憲法100条は適用されないという教義に固執している。当委員会はこうした見解を共有しない。

46.憲法100条の文言はオランダの領土上における軍事力の配備ないし利用に関する場合の適用に関しては2通りに解釈できる。しかしながら、2001年の評価枠はこの条項がこのような場合には当てはまらないことを明確に表明している。

47.憲法100条が2003年3月18日の表明によって下院に伝えられた決定に適用できないのは、その決定が軍事力の配備か利用と関係がなかったからである。
48.イラク戦争に対する政治的支持を送るという決定はデ・ホープス・シェッフェル大臣をNATO事務総長に任命するかも知れないことに影響は受けなかった。
49.本委員会は、閲覧に具するいくつかの国家機密文書の機密区分について疑問を持つ。この政策は歴史上の調査や実情調査を過度に妨げると見なされる。当委員会は文書の機密区分が定期的な再検討を受けるようなシステムを導入することを提案する。これは国立公文書館と、教育文化科学省の適切な仕事と思われるだろうし、後者の文書記録がそこに所属する