2011年2月6日日曜日

2010年 英国イラク戦争検証委員会へのストップ戦争連合の批判

昨年(2010年1月)のイギリス・イラク戦争検証委員会(チルコット委員会)のブレアの証言に対するストップ戦争連合の批判です。


ブレアがイラク侵略によって大量殺害を実行したことに対して完全に居直り、彼の戦争犯罪について何の追求もせずに検証委員会の場をブレアの居直りと侵略戦争正当化の演台にすることを容認したチルコット委員会も厳しく批判しています。

こうした反戦運動の批判と闘いがあったからこそ今年(2011年)1月のチルコット委員会へのブレア再喚問が実現したと言えるでしょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)


審判:大失態であり恥辱であり完全な失敗
トニー・ブレアはイラク検証委員会から最も手ぬるい扱いを受ける

次から次へと出る論点に関して、イラク検証委員会はブレアの証言を問題にする意思も能力も全くないことが明らかになった。ブレアが退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ガーディアン紙 2010年1月30日

ブレアを牢獄へ

シューマス・マイルン(ジャーナリスト)

今朝の大失態は失敗へと変わった。次から次へと出た論点に関してチルコット検証委員会のメンバーはイラク戦争に関するトニー・ブレアの最も打撃の大きい告白や不明瞭やウソに対して問題にすること―あるいは見たところ確認することさえ―する意思も能力もないことが明らかになった。

大部分のイラク人が占領に反対し、必然的に起きる予想された武装抵抗を支持したという事実について、委員会の誰1人として前首相に対して追求しなかったのはなぜだろうか?それどころか、彼らはブレアが反論してそれが全て「外部的要因とアルカイダとイラン」のせいであると主張するのを許したのである。彼らはそのどちらもイラクに持ち込んだのがイラク侵攻であるということを覚えていないようでもあった。

ブレアがイラクの大量殺人はテロリストに責任があると主張した時、少なくとも最初の2年間における市民殺害の大部分は占領軍によって行われたのだと発言しようとは誰も考えなかったのである。

対イラク侵攻の影響がイギリスや他の場所にかけられたテロ攻撃をあおり立てたことについてはどうだろうか?一言もなかったのである。そしてブレアがイラクにおいて「我々は人道上の大失敗に終わったのではない」と主張し、イラクの「顕著な」進歩ぶりを示す人々を誤らせる一連の統計を引用した時、委員会のメンバーは、国連が何と言おうと、それも喜んで受け入れたようである。

驚くべき証言があった。占領開始後には「残念ながら我々が問題になるだろうと考えたことは、問題ではなかった。」とブレアは言った。アルカイダとイランは「対イラク侵攻の任務をほとんど失敗させかけた」…しかし結局「そうはならなかった」とブレアは言明した。米軍が「あまりにも厳しく、あまりにも激しく」ファルージャにすでに突入していたというのである。いずれにしても、ブレアの大西洋を隔てた愛は彼が権力から去って以来深まっているのである。

検証委員会の報告に反論があるだろうと期待する人もいるかも知れない。しかし、破滅的な戦争犯罪に責任があると国内外で見なしている人が多い1人の男に対する当局の寛大ぶりの惨状には吐き気を催す。ジョン・チルコットはある時、占領の教訓は「高くついたが非常に必要なもの」だったと言った。その代価を実際に払った何百万人ものイラク人は全く違った見解を持っているのだ。

イラク検証委員会のブレア

ヘンリー・ポーター(小説家、ジャーナリスト)

正面のチルコットの前に現れたブレアの姿は炉端談義をしているみたいで、もっと穏やかなロンドンのクラブから来た委員会と対決するほどの困難さもなかった。

検証委員会のメンバーが、首相である時には正しいと信じることがほぼそのまま正しいことであるというけしからぬ考えや、判断を下すこと自体に決定的な価値があるという発想を実際に問題にすることはただの一度もなかったのである。
このことは―驚くことではないが―完全な失敗であり失態であった。この公聴会はチルコット委員会の報告がどんな結論を出そうとも、国民に対して、軍務についていた愛する人を失った人々やイラクの人々に対して、不満足感を与えた。審問団の歴史家―マーチン・ギルバート卿とローレンス・フリードマン卿である―と2、3回会話を交わした後は、十分に準備をしていたブレアにとってその後に続く6時間は汗を流す必要がないことは明白であった。すなわちそこに座って彼らに調子を合わせるだけの問題だったのであり、ブレアはそれを牽制と重要でない点での譲歩と誠実な政治家であるという外観を見せることによってやったのである。

午後になるまでに、検証委員会は2003年の侵略が2010年にもっと大きくなる危機から救ったのだとする彼の誤った世界観のための演台へと転落させられたのである。委員会はどうしてブレアにそんなことをうまくやらせることができたのだろうか?彼らは大量破壊兵器や、対イラク戦争の開戦理由として大量破壊兵器とサダムの打倒を混同した事や、ブレアが法律に関する意見を押さえ込んだことや、イラク侵攻後の計画を立てなかったことについての情報に基づいて厳密にブレアを審査するということをしなかった。委員会はブレアが後悔していないと表明した時に彼からどんな小さな後悔を引き出しもしなかったし、驚きの声を上げることもなかった。

ブレアが検証委員会から退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ハイファ・ザンガナ(小説家、イラクのサダム・フセイン政権時の元政治囚)

イラク戦争検証委員会でのトニー・ブレアの証言を見るのはひどく苦痛であった。ブレアは自らの経歴全体でそうであったと同じように口先のうまい人物であり、自らの「完全に明快な」見解を、選択肢がいかに全く明快な物であるか、そして「自らが正しい時には実行するのが正しいことだ。」と繰り返したのである。彼は自分のいつもの台本に従って、自分の演説の文章を読み上げたり、WMD[大量破壊兵器]について今やより強く感じている理由を長々と述べ立てたりして、イスラエルの武器庫については一切言及しないくせに「イランの危険性」について委員会を巧みに操ることが何とかできたのである。彼はとても独善的であり、私は彼が「イラク戦争について私を裁くのは神だろう。」と大声を上げて聖書を抱えて今にも立ち上がるだろう、という印象を受けた・

しかし、戦争犯罪人が自らの罪を認めることがどれくらいあるというのだろうか?彼は暖かく明かりの多いホールで家柄の良い人々と永遠に続くかも知れない学問的会話をしていたのである。大学生の方がもっと厳密な質問をしたことだろう。

バスラの62才になるおばあさんのサビハ・クドゥール・タリブは、彼女の息子によると、2006年に英国軍兵士によって自宅から連行された。拷問を受けた彼女の死体が英国軍の死体収容袋に入れて道ばたに投げ捨てられていた。英国警察が捜査中であると私たちは告げられている。ブレアも捜査を受けなければならないのではないのか?ブレアの尋問を、ブレアとブッシュによって始められたイラク人に対する尋問と比べるべきだ。

アブ・グレイブは「解放者」によって始められたテロ作戦の始まりに過ぎなかった。その遺産は、傭兵と米国・英国によって訓練を受けたイラク人警備部隊や、真夜中の家宅捜査や、下着のままで両手に手錠をかけられ頭に袋をかぶせられて闇の中に引っ張って行かれた人々が、後になって「間違いだった」と呼ばれるかも知れない申し立てについて拷問を受けることになるのだ。先月だけでもテロの容疑で2000人近いイラク人が逮捕されたのである。

ブレアの洗練された演技はイラク人やアラブ人やイスラム教徒にとっては現場で彼らが経験していること、すなわち人種差別的な植民地外交政策を立証しているに過ぎないのである。

この検証委員会は正義と国際法の再確立につながってこそ初めて意味がある。そうでなければ、増え続ける孤児たちが2,3年のうちにイラクと世界に何をするのかを想像できるだけである。最近の赤十字のレポートに引用されているが、ある人道活動家が「私はかつて一度爆発の現場に呼ばれたことがあります。そこでは4才の男の子が首を吹き飛ばされた母親の死体の横に座っていました。男の子はお母さんに話しかけて、『何があったの?』とたずねていました。」と語った。男の子は生きている人たちにも尋ね続けるだろう。現在の国連推計では、イラクの500万人の孤児が出た責任は英国と米国にあるとしている。今や、ブレアたちを民主的な選挙で二回選んだイギリス国民が、犠牲者への賠償をして、政府にイラクと世界に与えた打撃に対する責任を取らせる時である。

ジョージ・ギャロウェー下院議員
(ベスナルグリーン・アンド・ボー選出のリスペクト党下院議員)

悲しいことにこうやって彼は会場を支配し、質問されるのを避け、問題を追及された時に世論を欺くことを許されたのである。

イラクは侵略されてはならなかっただけではなく、経済制裁もされてはならなかったのである。それが今日の話からは完全に抜けていた。

ブレアは「要求に従うサダムの最後のチャンス」について話し続けるのを許されたが、イラクは違反をしていなかったし1994年以後も違反はしていなかった。ブレアは見えすいたウソを言うのを許され、検証委員会はウソを無視したのである。

イラクの重要な違反の理由の一つは、イラクがイラク国外で軍幹部を尋問することを武器査察官に認めよと要求する決議の条項をイラクが破ったことである、とブレアは言った。実際には、武器査察官が軍幹部をイラク国外に出るように要請する権限を決議は与えていたが、そのような要請は行われなかったのである。

だからイラクは拒否はできなかったし国連安保理決議1441条に違反することもできなかった。その事を知らなかったとしても、また知っていたとしても、検証委員会はこの問題でブレアに立ち向かう勇気がなかった―それはとてつもないウソである。

私たちに終わりはない。この連中に責任を取らせる運動は続いているし、総選挙へと続いていくことは疑いない。

ローズ・ジェントル
(彼女の19歳の息子のゴードンは2004年6月にイラクで殺された)

私が会場に入った時、体は震え、胃がむかついていたのは、彼に何も言えなかったからだ。私はこう言ってやりたかった。「真実を言え。なぜウソをつく?白状して自分は間違いを犯したと言ったらどうだ?」と。

最後の最後の部分は胸が悪くなった。ジョン・チルコット卿が後悔しているのか、と聞いても彼はしていない、と言った。そこには(家族を奪われた)家族がいたのに、一片の同情も一片のそれらしきものもなかったのである。耐え難いことだった。

彼はちょうど私たちに背を向けて座り、そのあと私たちに会うことも拒否したし、彼らしい態度だ。私は彼の姿を見ることができたが、彼の顔を見たかった。彼は私たちの方を決して見ようとはしなかった。

たくさんの良い質問が彼にされたが、実際には、どの質問にも彼は答えなかった。彼は問題を書類、すなわち調書に戻し続け、45分の大量破壊兵器の主張の責任をメディアのせいにしようとしさえした。

新しいことは何も知ることはなかったと思うし、検証委員会が終わってもできることは多くない。

私は彼を決して許さないし、彼は法廷に立たなければならないと確信している。私は一生彼に対して怒るだろう。

ローナン・ベネット(シナリオライター、小説家)

「私は自分の信じることしか知らない。」正直というものが常にブレアの最初から最後までの防衛線になってきた。彼が窮地に立っている時に、すなわちさらに悪いことに証言が誤りであることが明白になる時に、彼は誤りは免れないものだという人間一般に共通の性質を「あれ、おやっ?」と言って肩をすくめるという英国の公立高校版の仕草で認めるだろう。

フェルン・ブリットン[テレビのニュースキャスター]のインタビューなのか?自己卑下して、少し練習をしておいたジョークというのはコミュニケーションの前線においてはまだ何らかの学ぶところがある。

ローレンス・フリードマン卿がサダム・フセインが大量破壊兵器を持っていたと信じているのか、と聞いた時、ブレアはこう答えた。「私は信じていました。私は確かに信じていました。」彼は45分で大量破壊兵器が配備可能だと言うこと、経済制裁が機能していなかったこと、国連の2度目の決議が可能であること、戦争は合法的なものであること、恥知らずにも9・11事件とアルカイダとイラクを結びつけながら、イラクは脅威であったことを信じていたのだと彼は繰り返した。

正直が大きくなればそれだけ信じることも大きくなる。「彼の証言は、正しいことをしていると信じている人間のそれであった。」とBBCのニコラス・ウィッチェル記者が言った。我々はみな、その時には自分が正しいことをしていると信じた他の指導者たちのことが思い浮かぶ。そのかなり連中は極悪人であった。

英国の選挙で選ばれた指導者が信じていた唯一の点は、それが事実と合致するかどうかと言うことであった。信じていることが事実であるとなれば、自らの目的に合うどんな行動を取る道も開かれるからである。トニー・ブレアは一つの目的を持っていた。「第三の道」というたわ言のために、彼は論客になるのである。

幾万もの市民が死んだ戦争を始める権利を彼とブッシュが持っているのだという暗黙の前提は検証委員会を構成する男爵夫人やナイト爵や高官によっては疑問を出されることはなかった。ナセル?スエズ?モサデク?欧米諸国は常に自らの目的を正当化する方法を見いだすことができるのである。

在任期間中、ブレアは自分の分の支払いをいやがるので悪名高かった。彼は横の出口からすり抜けてヘッジファンドの友人の所に復帰した時、彼が爆撃をした国の人々は長期にわたって彼の正直さに対する勘定書を掲げ続けるだろう。

抗議行動参加者

トニー・ブレアの証言を聞いた聴衆の中の2人が、証言が終わった後で彼のことを「ウソつき」で「人殺し」だと言った。

何時間も聴衆は静かに聴いていた。しかし、終わり近くなって、彼は1人の発言妨害者に発言を中断させられたが、すぐに検証委員会議長のジョン・チルコット卿に制止された。テレビカメラが放映を止めた後、会場の聴衆の1人がブレアに対して叫んだ「お前は嘘つきだ。」2人目が付け加えた。「そして人殺しだ。」

イラクで殺された英国兵士の家族が元首相は「一人よがり」だったと言った。家族の一人はブレアが彼女の目を見て息子を亡くしたことに「申し訳ない」と言ってほしいと求めた。

バークシャーのリーディングのアンネ・ドナチーは2006年に狙撃兵によって18歳の息子のポールを殺害された。彼女はブレアを糾弾した。「今朝私が聞いた限りでは、彼は全てを否定しているだけです。彼は真実に面と向かうことさえしないでしょう。彼が私の息子をイラクに送った時、巨大な誤りをしたのに違いありません。」

北ウェールズのルランドゥドゥノのテレーズ・エバンスは2003年にチヌーク・ヘリコプターの事故で24歳の息子のリウェリンを失った。「私はトニー・ブレアに私の目を見て申し訳なかったと言ってほしいだけです。ところが彼はそんなことはしないであそこでニヤニヤ笑っているのです。」

その後、抗議行動参加者たちは「ブライアー[ウソつきブレア]」と書いたプラカードを握りしめてブレアが出発するのを待った。その朝ブレアは彼らを避けて午前7時30分に通用口を通ってウエストミンスターのQEⅠⅠセンターへと滑り込んでいた。

屋外の警察の隊列が抗議行動参加者と検証委員会の間に立った。

「彼は国民に顔を見せに来る誠実さもない。」とストップ戦争連合の呼びかけ人のリンドゼー・ジャーマンが言った。「裏口からこっそり入り込むなどは、彼のウソと偽りと言い逃れの典型だ。」