イラクの米軍が戦争犯罪!
7月30日の深夜(全交の当日!)、イラク中部のバラド基地の近くのアル・ルフェイト村を米軍・イラク軍の合同部隊が襲撃。
「武装勢力」とは全く関係のない村人に銃撃、手榴弾を投げ込み、3人が殺され、2人の少女を含む5人が負傷。
60代の部族の長老のハミード・ハッサン族長は目隠しをされ両腕が背中で手錠をかけられた死体となって発見されました。
イラク占領、そして市民殺害は続いています。占領軍を即時撤退させましょう!
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)
イラクの村で、家宅襲撃が米軍に対する不信感の種をまいている
ティム・アランゴとドュレイド・アドナン ニューヨークタイムズ 2011年8月2日
アル・ルフェイト、イラク-米軍とイラクの兵士がブドウ農家と部族の伝統のこの村に反乱容疑者を捜索しにこっそりとやってきて、朝の太陽の中を去って行った。
しかしその数時間の間に、作戦は恐ろしく間違ったものになった:すなわち、容疑者は捕獲を免れたが部族の長老を含む3人が殺害され、5人が負傷してそのうち2人は少女だった。
翌日の日曜日の朝、村人はイラク人の生活では見慣れた悲しみの儀式に従った。若者はその日の遅くに始まる3日間の葬式のためのテントを立てていた。ある母親は地元の教員であった息子が撃ち殺された時に着ていた血で染まった服を広げた。中では、一人の女性が死んだ彼女の兄弟のことを「どうして私をおいて行ってしまったの?」と泣き叫んでいた。
ほとんどの男たちは、たとえ作戦がイラクの治安部隊に率いられたものだとしても答えを得てアメリカ軍に怒りをぶちまけたがった。
この襲撃と死は月曜日にイラク国民議会と国内の新聞の憤激をかき立て、駐留米軍の将来の役割についての継続した議論と同時に起こっている。それは現行の協定では米軍が完全に撤退することを求められている年末を越えて米軍部隊が駐留するのに反対する人々にとって新たな契機を提供しているようだ。
しかし、それはまた、オバマ大統領が正式に戦闘任務が終了したと宣言をして1年近くたってからも、米軍兵士がなお2つの戦線での戦闘に今でもいかに深く関与しているのかを強調しているのである。その戦線とはこの村のあるサラハディン州のようなバグダッド北部のスンニ派支配の地域のスンニ派の反乱者に対する戦線であり、そして米軍兵士の戦闘関連の死が急増したことに責任がある南部のシーア派の私兵に対する戦線である。
それは公然とした監視を大部分は超えたところで闘われている戦争であり、イラクと米軍の特別部隊が兵器や反乱者を捜して家々を襲撃する時にほとんど毎晩小さな村や都市の住民にかけられているのである。銃撃を受けることはまれではあるが、それでもサダム・フセインの生まれ故郷のティクリートの真南にあるこのスンニ派の村で土曜日の朝早くに起こったように、時には死人を出す結果になることがある。
何百年間にもわたってこの土地を耕してきたと言うアル・ルファイト族の指導者のユーセユ・アフマド族長は「戦争は終わっていない」と語った。
主要な農作物はぶどうと小麦とオレンジだが大部分はブドウであり、豊作の年には農民は4万2000ドル以上を稼ぐことができる。この日、男たちは夜間襲撃の証拠を掲げた。ある男性は薬きょうを取り上げた。別の男性は手榴弾のピンを取り上げた。茂みの中に絡んでいたのはニューハンプシャー産の黒いプラスチックの手錠一つであった。
アフマド族長と彼の部族は米軍がイラクのアルカイダの反乱者グループの容疑者を狙ってイラクの司法当局の逮捕状を持って実行されたものだと米軍が言うこの作戦を糾弾した。
予想通り、襲撃の戦雲の余波の中で、対立する話が持ち上がった。アフマド族長は最初、反乱者に攻撃を受けていると考えて襲撃が始まった時に発砲した村人がいる、と言った。米軍はこれを確認したが、翌日、住民は武器を発射したことはない、と言ったのである。
e-メールの声明の中で、バグダッドの軍スポークスマンは「イラク軍部隊が米国の顧問と共に家屋に近づいたとき、銃撃を受けて防御のために反撃した。」と書いた。スポークスマンは「人数不明の死傷者が出て、この事件はイラク政府が調査中である」と語った。
午前1時を少し過ぎて襲撃が始まったとき、村人によるとたくさんの子どもを含む16人が米軍とイラク軍の兵士が行った最初の家屋の屋根の上で寝ていた―これは暑さとエアコンを動かす電気の停電から逃れるためにイラクでは普通におこなわれていることである。兵士たちは屋根から銃撃し、手榴弾を投げて反撃したようである。「その直後、命を奪う銃撃は終わった。」と米軍のスポークスマンは書いた。
翌日、屋根は手榴弾の衝撃であばたのようになり、血塗られた足跡が床を汚していた。2人の少女が爆弾の破片でけがをした、と村人は行った。
村人が言うには、また、この作戦が終わった時―それは始まってから約6時間たっていた、と彼らは言った―60代の部族の長老のハミード・ハッサン族長の目隠しをされ両腕が背中で手錠をかけられた死体を彼らは発見した。
族長の息子のマジド・ハミードは彼の父親が手錠をかけられて家から連れ去られたときに窓越しに見ていたのであり、これは彼の父親が結局殺されてしまったやり方についての心の痛む疑問を起こす話である。(この事件の説明について聞かれたとき、米軍スポークスマンは「作戦中に起こったことの詳細は調査中である」と書いた。)
「父は平和的な人間でした。」と19歳の息子は言った。「父は私たちの指導者でした。私には悪夢でした。私は怒ったことについて考えるのを止められません。私は寝ていました。そし突然銃撃と爆弾と手榴弾が来たのです。そして今、父親は死んでしまいました。」
米軍とイラク特殊部隊によって捜索された男は見つからなかったが、「2人のテロリスト容疑者が現場でとらえられ、指名手配されている個人との関係について尋問されている。」と米軍は声明の中で述べた。
地元当局者は、かつては反乱者への共感を心に抱いていたとしても、特別作戦部隊の本部である大きな米軍基地の近くのバラド郊外にあるこの村は、今なお爆発寸前のスンニ派の反乱の温床ではない、と言った。
「そこは平和な村です。」とサラハディーン州評議会の治安委員会委員長のモハンマド・ハッサンは言った。「村にはお尋ね者はいませんし、それにアルカイダのメンバーの情報を伝えてくれて、イラクの治安部隊と覚醒評議会をとても助けてくれています。」(覚醒評議会は以前の反乱者が所属陣営を転換して米軍側に立って戦うようになった2007年に発展した運動である。)
悲しみと怒りに身を震わせて、村人は米国の戦争の結果残された民主主義のスタイルを告発した。「これが米国が持ってきた自由なのか?」と倒れた部族長の家の外の群集の中の一人の男性が言った。
しかし、村人と地域当局は、米国の生活に深く根付いた頼みの綱となる手段を追求すると断言した。すなわち、訴訟を起こすのだ。
「私たちは米軍を訴えますよ。」とハッサン氏は言った。「私たちは法手続きと法廷によって米軍を追求しますよ。」