2012年1月6日金曜日

全占領軍の完全撤退を勝ち取る!イラク民衆との新たな国際連帯運動を!

2011年12月18日、米国占領軍の最後の部隊がイラクから撤退しました。2003年のイラク侵攻・占領から8年半を経て、ついにイラク民衆と世界の反戦・反グローバル資本主義の運動が占領軍を追い出したのです。

全占領軍の撤退にあたり、アメリカの支配層も「我々は敗北して去るのだ」(ギングリッチ元下院議長)、「中東で米国が新たな戦争をすることはないと思う。世論が賛成しない」(マケイン上院議員)と認めています。もっとも悪辣な戦争と貧困の政策を進めたグローバル資本主義の戦争政策が敗北したのです。

当初オバマ政権は数万人のイラク占領体制の継続をもくろんでいました。しかし、全占領の撤退を要求する強力なイラク民衆の闘いと全世界の世論、チュニジア・エジプト、イラクで立ち上がった中東民主主義革命(アラブの春)のうねり、そしてグローバル資本による貧困と格差拡大に対して「我々は99%だ」と声を上げて全世界で広がるオキュパイ(占拠せよ!)運動を前にして、占領を維持することが出来なかったのです。

イラク民衆との国際連帯運動もまた新しい段階に入ります。12月2日、イラク自由会議(IFC)は最大の目標であった占領軍の撤退を勝ち取ったことをふまえて、発展的な解散を決定しました。IFCはその解散宣言の中で、「この運動は異なった新しい政治的組織的枠組みで闘いを継続する。それは…世界が専制と飢餓、失業に反対する巨大な革命運動を目撃している今日の時代にふさわしい新たな枠組みである」と表明しています。

占領軍を撤退させたイラクの闘いは、グローバル資本の手先であるマリキ腐敗政権の民衆抑圧、貧困と失業の政策に立ち向かい、平和で民主的な社会を築くための新たな段階に入ったのです。

サナテレビはこうしたイラクにおけるグローバル資本による支配に立ち向かう民衆の闘いと実態を伝えていきます。ぜひこの闘いに連帯し、引き続きイラク平和テレビ局の視聴者を広げ、「イラク民主主義革命連帯・サナテレビを支える会」に参加していただくことを訴えます

米国の撤退とイラク占領の終結に関する声明

 イラク占領の9年を経て米国政府は1130日、バグダッド訪問中の副大統領ジョー・バイデンを通じて、イラクからの完全撤退を宣言した。バイデンはイラク政府の代表たちの出席の下、公式祝賀会を催した。
 イラク民衆が経験した苦しみに満ちた暗黒の9年間は、米政府によるイラク戦争・占領正当化の口実がすべて根拠のないものだったことを証明した。大量破壊兵器の存在からサダム政権のアルカイダとの関わり、イラクの民主化に至るまで、すべてウソだった。ブッシュ時代にすでに米政府は、イラクに大量破壊兵器はなかったと認めた。サダムとアルカイダの関係を示す証拠は何も見つからなかった。「民主主義」の普及について言えば、イラクは腐敗と難民流出において世界最悪クラスにランキングされ、経済・政治・医療・福祉などあらゆる面で失敗国家の一つになっている。加えてイラクは宗派主義・民族主義ギャングと組織犯罪集団、内外のマフィアが溢れんばかりに群がる国へと変えられてしまった。
 米軍イラク完全撤退宣言は、湾岸戦争以来「新世界秩序」を押しつけようとしてきた政策の失敗を米国が公式に認めたものだ。それは新たな時代の始まりを告げている。グローバル経済危機が吹き荒れる世界。権益の配分をめぐる諸大国、地域の諸勢力の間の抗争が燃え上がる世界。貧困と飢餓、失業に反対し、自由と人間の尊厳、平等を求めてアラブ・中東地域の国々で始まり、イラクにも広がった民衆蜂起が今や欧米の諸都市を席巻しつつある世界。この世界における新たな時代である。
 さまざまなギャング集団が自らの存在を占領へのレジスタンスと正当化し、のさばった占領の時期は、米軍の完全撤退によって終了する。占領の終結をもたらした力は、自由と平等、人間の尊厳に貫かれたよりよい世界をめざすイラクの革命運動の前進を後押しするだろう。
イラク人民万歳
自由万歳
搾取なき世界を建設する解放・革命運動万歳

イラク自由会議第13回中央委員会拡大活動者会議  2011122

イラク自由会議の活動停止についての決定および解散宣言

2005319日に結成されたイラク自由会議(IFC)は主要な目的・最優先課題を、占領の追放および人間を民族や宗派の別なく人間として尊重する政教分離政府の樹立に置いた。IFCはさまざまな分野における闘いと占領終結のために払った犠牲を誇りとし、この機に喜びと祝意を表明するとともに、占領に反対しよりよい世界の実現をめざす闘争に寄せられたイラク内外のあらゆる解放・革命勢力の支援と助力に深い感謝の念を表明する。

IFCは、解放とよりよい世界をめざす革命運動、イラクにおける大きな運動に包含される政治的組織的枠組みである。この運動は異なった新しい政治的組織的枠組みで闘いを継続する。それは占領後の新たな段階のイラク、宗派主義と貧困、腐敗に立ち向かう民衆抗議行動の夜明けを告げた225日後のイラクにふさわしい枠組みであり、世界が専制と飢餓、失業に反対する巨大な革命運動を目撃している今日の時代にふさわしい新たな枠組みである。

占領の終結が正式に発表された今、IFCはその闘いの最終局面に至る。IFCはすべての活動を停止することを宣言し、自らの解散を呼びかける。

イラク自由会議第13回中央委員会拡大活動者会議   2011122

イラク自由会議拡大中央委員会最終声明

イラク自由会議(IFC)はイラク人民とともに占領の終結を祝い、この機に活動を停止することを宣言する。
 122日、多くのメンバーとスタッフ、活動家、支援者らが出席する中、IFC拡大中央委員会の会議が開かれた。
 会議は、IFCの掲げる目標、平和と安全・自由・平等が勝利を収めるイラクのために犠牲となった人々に黙とうを捧げ、中央委員会書記長サーレハ・ハディ、中央委員アハメド・フセイン、同エルハム・タラバニ、スタッフのバルワ・ラマダンらから成る議長団によって進めらた。
 サミール・アディルは開会あいさつで「われわれを取り巻く世界は変化している。現代世界の巨大な変容の方向に影響を与えるためにも、われわれは変わらなければならない」と述べた。
 サミールはさらに、アラブ世界と中東地域の大衆抗議行動から、グローバル経済危機、世界と地域の諸大国による世界再分割をめぐる紛争のエスカレーション、そして貧困・失業・飢餓に反対する米国・ギリシャ・英国における民衆運動の登場と他の国々へのその広がりに至るまで、世界と中東地域に起きている政治的変化について指摘。「貧困・腐敗・宗派主義に反対する運動を組織し、われわれの政策と展望を行き渡らせるためには、ばく大な努力を必要とする。われわれは225日にイラクで大衆抗議行動が火ぶたを切って以来続けてきたこの運動を完成させなければならない」と締めくくった。
 続いて、「IFCの政治的歩み」という標題のスライドショーが上映された。これは、占領に反対するIFCの活動のさまざまな場面とリーダー・活動家の姿を映し出した数十枚の写真から成るもので、会議の雰囲気を高め、参加者全員がIFCの闘いの歴史をたたえて数分間スタンディング・オベーションをするに至った。
 その後、「アラブの春とわれわれの運動に対するその影響」という討議資料に基づいて議論が行われた。サミールはこれを開会あいさつの続きと位置づけ、中東地域の大衆抗議行動が中東と世界の政治的力関係、そしてイラクにおけるわれわれの運動にいかに大きな影響を与えたか、を説明した。これらの抗議行動とそれによる変化が示しているのは、こうした変容に対応していくための新たな政治的枠組みの必要性だと指摘。同様に、イラクからの米国の撤退は、イラクの解放・革命の運動―IFCはその一員だ―がこの新たな段階の要請に応え得る政治的組織的枠組みを必要としていることを証明するもう一つの要因であると付け加えた。
 サミールの報告を通じて、IFCがその闘争の最終段階に到達したこと、当初の目的の一つ、占領終結を実現したこと、新たな段階にはそぐわない政治的組織的枠組みとなってしまったことが結論づけられた。
 会議出席者は旺盛に討論に参加し、多くの意見を投げかけた。そして「米国のイラク撤退に関する声明」が提案され、投票で全員一致により承認した。さらに、占領に反対しよりよい世界の建設をめざすイラク民衆とIFCの闘いを支えた世界の諸団体に対する感謝のメッセージを採択した。これらの団体は日本のMDS、米国のUSLAWおよびAFSC、フィリピンのAKCDFおよびフィリピン・韓国そして世界中の自由を愛する勢力である。
 決議案の議題では、「IFCの活動停止と解散」の決議案が出席者に提示され、この課題をめぐる広範囲にわたる長時間の討論を経て、会議は投票により絶対多数で[英語版では全会一致で]IFCの解散を承認した。
 サミールは以下のように閉会の言葉を述べた。「IFCの解散は闘いと政治活動を打ち捨てることを意味するものでは決してない。すべてが終わったのでは決してない。この決定はわれわれの運動の利益のための、われわれが新たな段階の要求に応えられるようにするための政治的決定である。私は会議の休憩時間に、多くの同志がこの決定に痛みを表しているのを耳にした。これからどこへ向かえばいいのか、と聞く同志もいた。私はこう答える。IFCの設立はイラク労働者共産党(WCPI)によって発案されたものであり、私は2005年2月に政治局によりIFC創設に向けて活動するよう委任された。この数年、WCPIはIFCを支援し、政治的展望を指し示してくれた。今日私は、IFCの枠組みを打ち建てたWCPIは現在の情勢の要請に応える新たな闘争の枠組みを打ち建てることができる、と言いたい。私はここに残るが、新たな変化に対応しそれに影響を与えられるよう、私もまた変わらなければならない。私はみなさんと共にある。サミール・アディルを支持するという人々、WCPIの綱領・目的・政策に基本的に共感できるという人々は、WCPIに加入してほしい。しかし、WCPIへの加入を望まない人々をわれわれが見捨てるわけでは決してない。われわれはつねに同志たちを大切にしている。不一致点があっても、共にわれわれの活動を続けよう。次なる「章」は新たな形の運動と努力とメカニズム、新たな組織的枠組みを必要とする。腐敗・貧困・宗派主義に対する強力な民衆運動を組織することが、われわれの闘いの次なる段階だ。
 私はみなさんと痛みを共にするが、痛みの性質が違う。この痛みは女性が出産にあたって、新たな子どもを産み生命を引き継いでいく時の痛みに似ている」
 会場には大きな拍手が響き渡り、IFCスタッフで青年学生連合のリーダーの一人アリ・イサームによる熱烈な詩の朗読で会議は幕を閉じた。

イラク自由会議第13回中央委員会拡大活動者会議   2011122

2011年8月11日木曜日

米軍がまたもイラク市民を殺害

イラクで米軍がまたもや市民を殺害しました。この1週間で2回目です。今回は13年の少年とその父親が犠牲となりました。そして住民から略奪も…。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

襲撃でイラク市民が死亡、撤退協議は紛糾へ

マイケル・S.シュミット   ニューヨークタイムズ 2011年8月7日付
2011年8月6日

バグダッド―

1週間で2回目となったのだが、イラク軍・米軍合同の武装勢力を狙った襲撃が結果として市民を殺害した。

ティクリートのちょうど南にあるイシャキ村の目撃者の話では、金曜日の早朝にイラク軍と米軍が襲撃を実行した時に市民に発砲し、手榴弾を投げつけた。村人によると、部隊は村の中にいた人々からの銃撃に対応していてそのあと撃ち返し、13歳の男の子と非番の警察官を殺した。

米軍幹部は作戦があったことは認めたが詳細はほとんど言わなかった。

「これはイラク軍が計画して主導した対テロ作戦でした。」と米軍のスポークスマンであるジェフリー・ブキャナン少将が声明の中で述べた。「作戦はヘリコプターなどの米軍の支援によって可能となっていた。また、ほとんどがイラク軍であったが少人数の米軍の軍事顧問が作戦に参加していて、彼らは地上の全ての活動の指揮をとっていた。」

ブキャナン少将は「戦闘が続いて起こったので」、増援の米軍が反撃したのだ、と言った。「米軍はその地域を確保したが作戦には関与していなかった。」と彼は言った。声明は元々の現場の米軍が武器を発砲したのかどうかについては述べていなかった。

イラク軍特別部隊のスポークスマンはコメントを断った。

7月30日の台無しになった襲撃の直後におこなわれたこの作戦は、米軍が今年末以後もイラクにとどまるべきかどうかについての政治的に悩ましい協議を紛糾させることは確実だ。

非公式には残るべき部隊もあるという米国高官からの圧力の中で、イラク政府は水曜日に、米軍の駐留継続についての交渉を開始すると発表した。

金曜日の襲撃についてすでに米軍を厳しく非難している政治家もいて、彼らはイラク国内の新聞でまたもやイラクの主権を侵害したと米軍を批判している。

米軍の幹部によると、イシャキでの作戦は爆薬を集めていた反乱者のチームを選び出していた。反乱者が見つかったかっどうかは不明のままである。

金曜日に、幹部はヘリコプターの支援を提供したと語り、そのことが襲撃は米軍の作戦であるという誤った印象を与えたのかもしれない、と説明した。また、装備や技術のせいでイラク軍がしばしば米軍と間違えられるとも言った。

しかし、土曜日には米軍が参加していたという目撃報告に基づいてさらに質問を受けた後、米軍は米軍部隊が参加していたという声明を発表した。

地域の当局者と2人の目撃者は、ある村人が盗賊だと思ったから部隊に発砲したときに銃撃が始まった、と言った。

「家の近くで銃撃音が聞こえ、私の息子は起き上がり怖いので庭に逃げました。」と少年の母親である51歳のナジア・ガマスは言った、「彼らは息子と夫を撃ったのです。」

アル・ルファイトのブドウ農園の村でおこなわれた7月30日の襲撃では部族長を含む3人の死者が出て、米軍が発砲前に銃撃されたのかどうかについて矛盾した報告がおこなわれた。米軍は、米部隊はイラク軍と共に参加したが、襲撃が議論になるのは、一つにはその標的が見つからなかったからだ、と言った。地域の幹部が言うには、その村はかつては反乱者への共感を抱いていたかもしれないが、スンニ派の反乱者の温床になっているのではないということである。

米軍は一つにはイランに対する釣り合いを取るために部隊をイラクに残したがっている。

イラクの高い地位にある政治家や軍人は訓練のために米軍の助けが必要であると確信している者が多い。しかし他の人たち、特に影響力の強いムクタダ・アル・サドル師はイラク国内に米軍を維持するのでは占領の継続に過ぎないと言っている。

イシャキの62歳の農夫のムハンマド・ファルハンにとっては、政治論争が個人の問題になっている。彼が言うにはイラク軍と米軍が金曜日の午前2時頃に彼の家のドアを打ち壊し、彼と3人の親戚を縛り、外に連れ出した。

彼が言うには、イラク軍と米軍が彼の家を捜索し、彼の小切手を盗み、彼の兄弟のパスポートを持ち去った。「米軍は私たちが嘘つきでテロリストだと言っていました。」とファルハン氏は言った。「なぜ私たちを襲うのです?私たちはただの罪もない住人ですよ。」

英国のイラク戦争検証委員会

英国のイラク戦争検証委員会(チルコット委員会)がいよいよ今年秋に報告書を出します。「メール」紙によるとトニー・ブレアは対イラク戦争の際に、自らの内閣にも、国会にも、イギリス国民にもウソを語りました。ブレアは「戦争犯罪で有罪」(ストップ戦争連合)ということになります。日本でもイラク戦争検証委員会を設置させましょう。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

イラク戦争検証委員会はトニー・ブレアが戦争犯罪人であることを確認するだろう。それではその次に何が起こるのか?        
※ストップ戦争連合のHPより

サイモン・ウォルターズ トニー・ブレア・ウォッチ  2011年7月31日

イラク戦争検証委員会はトニー・ブレアが自らの内閣にも、国会にも、イギリス国民にもウソを語ったと「メール」紙は言う。そうなると、戦争犯罪で有罪だ。その次に何が起こるのだろうか?

サイモン・ウォルターズ メール・オンライン  2011年7月31日

トニー・ブレアは現代史上最大の外交上の大失敗に英国を導くのに自らが果たした役割について政府が設置したイラク戦争検証委員会の容赦ない批判に直面することになる。彼は4つの主要な失敗に責任があると見なされるだろう。

*サダム・フセインの大量破壊兵器に関して作り出された虚偽の主張を行った。

*戦争を開始するというジョージ・ブッシュとの秘密の約束を英国民に言わなかった。

*ソファー・ガバメント[非公式の顧問グループを中心に行う政治]スタイルで内閣には何も知らせないでいた。

*イラクの戦後の大混乱を避ける計画を立てなかった。

信頼できる情報筋によると、ブレア氏と主要な盟友たちの声望は、ジョン・チルコット卿のイラク戦争検証委員会の報告が今年の秋に公表された時に多大な損害を被るだろうという。ブレア氏とジャック・ストロー元外相や元首相官邸の情報操作専門家アラスター・キャンベルはみな批判を受けると予想されている。

チルコット卿の5人の強い権限を持つ専門家の委員会によって非難を受ける者たち全員が2、3週間のうちにイラク戦争検証委員会の結論についての通知を受けるだろう。彼らは報告が完成する前に申し立てた誤りについて反論する最後の機会を与えられるだろう。まだ書かれてはいないが、どの分野に焦点を当てるのかについては明確な見通しが示されてきた。

ブレア氏がジョージ・ブッシュと一緒にサダム・フセインに対する戦争を行って8年がたち、チルコット委員会は有罪の判定を下す。イラクで合計179人の英国兵士が死んだ一方でイラク人の死者の推定数は10万人から65万人まである。サダムは数週間で倒されたが、イラク侵攻は血塗られた結果を引き起こし、英国や他の場所でテロを増加させる原因になったと主張された。

2年前に当時のゴードン・ブラウン首相によって設置されたチルコット委員会はイラク紛争に関する3つ目の委員会である。情報の欠如に関するバトラー委員会と国防省の兵器専門家のデビッド・ケリー博士の死に関するハットン委員会に次ぐものである。

委員長である元公務員で72歳のジョン・チルコット卿はイラク戦争の2年前の2001年から2009年までの全ての期間に及ぶよりよく調べる調査を行うことを要請された。

ブレア氏が議会に対してサダムが大量破壊兵器を保有していると言っている情報は「疑いもないこと」であると言った事に対して、検証委員会は厳しく追及している。証人としてブレア氏はふてぶてしくも戦争には何の後悔もしていないし、英国は結局はイラク戦争を「計り知れない誇り」を持って振り返ることができるようになるだろうと言い張った。しかし彼は、サダムが45分以内に大量破壊兵器を発射することができるという首相官邸の調査書類の主張の解釈を誤ったことは認めた。彼はまた、戦争前には英国下院で明言したにもかかわらず、2002年秋にはサダムからの「増大しつつある」脅威はなかったことをしぶしぶ認めた。

チルコット委員会の報告は情報操作専門家のキャンベル氏を批判するだろうと予想されているが、サダムの兵器に関する調査書類が「戦争を起こすために事件を起こす」ことをたくらんだものであったのだと言うことを彼は否定したが、国防省情報局の情報収集部長であった元スパイの頭目のマイケル・ローリー少将によって異議を申し立てられた。

ローリー少将は2ヶ月前にチルコット委員会にこう言った。「アラスター・キャンベルはその書類の目的は『戦争のために事件を起こすこと』ではなかったと言いました。私は当時、それが真の目的であり、まさにこの言葉が使われたと言うことに何の疑いも持ちませんでした。私たちは当時、その目的が、役に立つ情報を用意するのではなくて、まさに戦争のための事件を起こすことにあるのだということを知っていました。私と書類の作成にかかわった人々はまさにそのように見ていたのであり、それが私たちに与えられた指示だったのです。」

そして今月はじめには、名前のわからないMI6[英国情報局秘密情報部]の幹部が言うには、キャンベル氏は情報書類に関する活動で「誘導されていないミサイル」のような行動をとっている。そして情報操作専門家は「頭にかっと血が上って事前の適切な相談もなくジャーナリストにさまざまな話や情報を伝える傾向」があるというのである。

チルコット委員会はまた、国民にはまだ決定はしていないと主張しながら、対イラク戦争の1年以上も前に戦争を支持すると個人的にブッシュ氏に言ったというやり方に焦点を置くだろうと理解されている。ブレア氏は2002年にブッシュ大統領のテキサスの農場で開戦の取り決めの「血盟」が交わされたということを否認した。彼はサダムに「対処する」ことに合意しただけだ、と言ったのである。

しかしながら、英国が「体制変更」を支持したかどうかということについてのブレア氏とストロー氏の間の意見の食い違いもチルコット委員会の結論の顕著な特徴となるだろう。その上、ストロー氏は、自分が「非常にしぶしぶ」イラク戦争を承認しただけなのに、イラク戦争が違法であると言う外務省法律顧問の警告を無視したと言ってしまったので、非難を受けている。元外務省上級法律顧問のマイケル・ウッド卿は、イラク戦争に抗議して辞任を検討したし、開戦に反対した後は干されたと言ったのである。

戦争に関する主要な決定が腹心の小さな仲間内によって彼の書斎で決められると言う、ブレア氏のソファー・ガバメント[非公式の顧問グループを中心に行う政治]のスタイル―大部分の閣僚や政府当局者が排除されていた―もまた糾弾されると予想されている。

サダム打倒の後の戦後の混乱の対策を立てなかったことは、チルコット委員会の結論のもう一つの重要な部分になると信じられている。チルコット委員会は、英国軍の司令官のティム・クロス少将が、一つには戦後の計画が「哀れなほどに貧弱」であるために、開戦の2日前にイラク侵攻を遅らせるようにブレア氏に要請した経過を聴取した。

クロス少将は「私は『この軍事作戦に勝てることには何の疑いもありません。しかし、戦後のイラクの準備はできていないと確信しています』と多大な言葉を使って言ったのを覚えています。」と言った。彼は戦後バグダッドに着くと、事態は予想以上に悪化していた。「バグダッドは金網とチューインガムによってつなぎ合わされていました。」と彼は言った。

ブレア氏に近い筋は、ブレア氏が直面しそうな類の批判のことは承知していると言う。「これはまだ書かれてもいない報告を予断をもって判断しようとする意図的なたくらみである。我々は公表されるまでコメントはしない。」ということである。

2011年8月5日金曜日

イラクの米兵が戦争犯罪

イラクの米軍が戦争犯罪!

7月30日の深夜(全交の当日!)、イラク中部のバラド基地の近くのアル・ルフェイト村を米軍・イラク軍の合同部隊が襲撃。

「武装勢力」とは全く関係のない村人に銃撃、手榴弾を投げ込み、3人が殺され、2人の少女を含む5人が負傷。

60代の部族の長老のハミード・ハッサン族長は目隠しをされ両腕が背中で手錠をかけられた死体となって発見されました。
ラク占領、そして市民殺害は続いています。占領軍を即時撤退させましょう!

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

イラクの村で、家宅襲撃が米軍に対する不信感の種をまいている

ティム・アランゴとドュレイド・アドナン  ニューヨークタイムズ 2011年8月2日

アル・ルフェイト、イラク-米軍とイラクの兵士がブドウ農家と部族の伝統のこの村に反乱容疑者を捜索しにこっそりとやってきて、朝の太陽の中を去って行った。

しかしその数時間の間に、作戦は恐ろしく間違ったものになった:すなわち、容疑者は捕獲を免れたが部族の長老を含む3人が殺害され、5人が負傷してそのうち2人は少女だった。

翌日の日曜日の朝、村人はイラク人の生活では見慣れた悲しみの儀式に従った。若者はその日の遅くに始まる3日間の葬式のためのテントを立てていた。ある母親は地元の教員であった息子が撃ち殺された時に着ていた血で染まった服を広げた。中では、一人の女性が死んだ彼女の兄弟のことを「どうして私をおいて行ってしまったの?」と泣き叫んでいた。

ほとんどの男たちは、たとえ作戦がイラクの治安部隊に率いられたものだとしても答えを得てアメリカ軍に怒りをぶちまけたがった。

この襲撃と死は月曜日にイラク国民議会と国内の新聞の憤激をかき立て、駐留米軍の将来の役割についての継続した議論と同時に起こっている。それは現行の協定では米軍が完全に撤退することを求められている年末を越えて米軍部隊が駐留するのに反対する人々にとって新たな契機を提供しているようだ。

しかし、それはまた、オバマ大統領が正式に戦闘任務が終了したと宣言をして1年近くたってからも、米軍兵士がなお2つの戦線での戦闘に今でもいかに深く関与しているのかを強調しているのである。その戦線とはこの村のあるサラハディン州のようなバグダッド北部のスンニ派支配の地域のスンニ派の反乱者に対する戦線であり、そして米軍兵士の戦闘関連の死が急増したことに責任がある南部のシーア派の私兵に対する戦線である。

それは公然とした監視を大部分は超えたところで闘われている戦争であり、イラクと米軍の特別部隊が兵器や反乱者を捜して家々を襲撃する時にほとんど毎晩小さな村や都市の住民にかけられているのである。銃撃を受けることはまれではあるが、それでもサダム・フセインの生まれ故郷のティクリートの真南にあるこのスンニ派の村で土曜日の朝早くに起こったように、時には死人を出す結果になることがある。

何百年間にもわたってこの土地を耕してきたと言うアル・ルファイト族の指導者のユーセユ・アフマド族長は「戦争は終わっていない」と語った。

主要な農作物はぶどうと小麦とオレンジだが大部分はブドウであり、豊作の年には農民は4万2000ドル以上を稼ぐことができる。この日、男たちは夜間襲撃の証拠を掲げた。ある男性は薬きょうを取り上げた。別の男性は手榴弾のピンを取り上げた。茂みの中に絡んでいたのはニューハンプシャー産の黒いプラスチックの手錠一つであった。

アフマド族長と彼の部族は米軍がイラクのアルカイダの反乱者グループの容疑者を狙ってイラクの司法当局の逮捕状を持って実行されたものだと米軍が言うこの作戦を糾弾した。

予想通り、襲撃の戦雲の余波の中で、対立する話が持ち上がった。アフマド族長は最初、反乱者に攻撃を受けていると考えて襲撃が始まった時に発砲した村人がいる、と言った。米軍はこれを確認したが、翌日、住民は武器を発射したことはない、と言ったのである。

e-メールの声明の中で、バグダッドの軍スポークスマンは「イラク軍部隊が米国の顧問と共に家屋に近づいたとき、銃撃を受けて防御のために反撃した。」と書いた。スポークスマンは「人数不明の死傷者が出て、この事件はイラク政府が調査中である」と語った。

午前1時を少し過ぎて襲撃が始まったとき、村人によるとたくさんの子どもを含む16人が米軍とイラク軍の兵士が行った最初の家屋の屋根の上で寝ていた―これは暑さとエアコンを動かす電気の停電から逃れるためにイラクでは普通におこなわれていることである。兵士たちは屋根から銃撃し、手榴弾を投げて反撃したようである。「その直後、命を奪う銃撃は終わった。」と米軍のスポークスマンは書いた。

翌日、屋根は手榴弾の衝撃であばたのようになり、血塗られた足跡が床を汚していた。2人の少女が爆弾の破片でけがをした、と村人は行った。

村人が言うには、また、この作戦が終わった時―それは始まってから約6時間たっていた、と彼らは言った―60代の部族の長老のハミード・ハッサン族長の目隠しをされ両腕が背中で手錠をかけられた死体を彼らは発見した。

族長の息子のマジド・ハミードは彼の父親が手錠をかけられて家から連れ去られたときに窓越しに見ていたのであり、これは彼の父親が結局殺されてしまったやり方についての心の痛む疑問を起こす話である。(この事件の説明について聞かれたとき、米軍スポークスマンは「作戦中に起こったことの詳細は調査中である」と書いた。)

「父は平和的な人間でした。」と19歳の息子は言った。「父は私たちの指導者でした。私には悪夢でした。私は怒ったことについて考えるのを止められません。私は寝ていました。そし突然銃撃と爆弾と手榴弾が来たのです。そして今、父親は死んでしまいました。」

米軍とイラク特殊部隊によって捜索された男は見つからなかったが、「2人のテロリスト容疑者が現場でとらえられ、指名手配されている個人との関係について尋問されている。」と米軍は声明の中で述べた。

地元当局者は、かつては反乱者への共感を心に抱いていたとしても、特別作戦部隊の本部である大きな米軍基地の近くのバラド郊外にあるこの村は、今なお爆発寸前のスンニ派の反乱の温床ではない、と言った。
「そこは平和な村です。」とサラハディーン州評議会の治安委員会委員長のモハンマド・ハッサンは言った。「村にはお尋ね者はいませんし、それにアルカイダのメンバーの情報を伝えてくれて、イラクの治安部隊と覚醒評議会をとても助けてくれています。」(覚醒評議会は以前の反乱者が所属陣営を転換して米軍側に立って戦うようになった2007年に発展した運動である。)

悲しみと怒りに身を震わせて、村人は米国の戦争の結果残された民主主義のスタイルを告発した。「これが米国が持ってきた自由なのか?」と倒れた部族長の家の外の群集の中の一人の男性が言った。

しかし、村人と地域当局は、米国の生活に深く根付いた頼みの綱となる手段を追求すると断言した。すなわち、訴訟を起こすのだ。

「私たちは米軍を訴えますよ。」とハッサン氏は言った。「私たちは法手続きと法廷によって米軍を追求しますよ。」