2011年2月25日金曜日

IFC、サナテレビ、イラク青年学生連合への弾圧

IFCとサナテレビ、そして結成されたばかりのイラク青年学生連合に対する弾圧が続いています。マリキ政権に断固抗議しましょう。


治安警察隊がバグダッドのイラク自由会議のサナ衛星テレビの事務所を襲撃し、全ての機材を破壊した。

イラク自由会議   2011年2月23日

バグダッド時間の午後2:30頃、治安警察部隊がバグダッドのイラク自由会議のサナ衛星テレビの本部を襲撃し、事務所のありとあらゆる資材を破壊したばかりか、多数の文書を押収していった。

こうした攻撃が行われたのは、2011年2月20日の夜にデモ隊が警察と衝突して1人のデモ参加者が殺害されたというまさにその場面を撮影し記録したサナテレビによって多数のテレビ局がタハリール広場で起こった事態の場面を放送し、またタハリール広場で行われることになっているデモの組織化の支援にサナテレビが積極的に参加した後のことであった。

これがマリキ政権でありその抑圧行為なのだ。これがマリキが誇っている民主主義と表現の自由なのだ。マリキは彼に反対し批判する人たちを沈黙させるために自らの私兵を送り込み続けている。マリキはベン・アリやムバラクやカダフィのやってきた拷問行為と何の違いもない。

イラク自由会議は、闘いを続けてマリキと彼の傭兵の行為に屈服しないと断言し、2011年2月25日のデモはこの政府の行為がどんな野蛮なものになっても行進を続けると宣言する。

IFCは2011年2月25日の百万人デモ行進を全力で準備し闘い続けることを誓うものである

Anti Riot police raid the office of Iraq Freedom Congress satellite TV

(Sana) in Baghdad, and destroy all its equipment At around 2:30 am Baghdad time a group of anti riot police raided the headquarter of Iraq Freedom Congress satellite TV (Sana) in Baghdad and destroyed every single piece of equipment in the office as well as confiscating a number of documents.

These attacks occurred following broadcasting segments of events took place in Tahrir Square in Baghdad by a number of TV Channels via Sana TV who filmed and documented a particular segments in which protesters clashed with the police on the night of February 20th, 2011 and one protestor was killed as a result, as well as the active participation of Sana TV in assisting of organizing the forthcoming demonstrations in Tahrir Square.

This is the Maliki government and its repressive practices; this is the democracy and freedom of expression which Maliki's is bragging about. He continues sending his militias to silence his opponents and critics. He is no different than Ben Ali, Mubarak and Gaddafi in acts of torture.

Iraq Freedom Congress assert that it will carry on the fight and will not bow to the practices of Maliki and his mercenaries and vow that the demonstrations on February 25th, 2011 will continue the pace no matter how brutal this government practices is.

IFC pledges that it will continue organize and fight with full force in the million people march on February 25th, 2011.
Iraq Freedom Congress   February 23, 2011

プレス発表 【※アラビア語から英語への機械翻訳から】

サラハディーン州知事はサラハディーンのイラク自由会議の指導者を逮捕したことについて嘘をついている

イラク自由会議  2011年2月22日

ティクリートのカディシヤ地区の治安警察部隊が月曜日[2月21日]の夜にサラハディーン州のイラク自由会議の指導者の一人を逮捕した。彼の名はマフムードで、イラク青年学生連合の執行委員の一人である。

この逮捕の背景にあるのはサラハディーン州評議会にティクリート市での平和的なデモ行進の準備の申請を行ったことがある。このデモは、勝手気ままな逮捕をやめるといった基本的人権や秘密監獄の閉鎖や対テロ法の廃止や失業手当の給付や電気の供給や配給カードの改善といった事を要求するためのものであった。

デモ申請の受付をはっきりと受け取った後、デモ申請者と多数の指導的メンバーに対する攻撃がその日の夜に開始されたが、逮捕されたマフムードを除いて何とか逃がれることができた。

サラハディーン州評議会が人権基本法を危機にさらしただけでなく、サラハディン州知事はバグダッドニュースにあからさまなウソを語った。

イラク自由会議はサラハディーン州評議会のこの恥ずべき行為と準備された基本的人権の侵害を糾弾し、マフムードの即時釈放を要求する。

 同時に、サラハディーン州の評議会と州知事とサラハディーン州治安警察部隊はマフムードの身柄と安全に全面的な責任がある。イラク自由会議はマフムードの釈放のために可能なあらゆる手段を行使する。

そして、このような行為と弾圧戦術はIFCの行進を止めることも、イラクの進歩的な大衆がイラクに自由とパンと安全をもたらすことを止めることもできないと再確認するものである。

Press Release:

Governor of Salah al-Din Lying about the arrest of one of the leaders of Iraq Freedom Congress in Salah al-Din

I fell Monday night force of riot police in Tikrit area Qadisiyah to detain one of the leaders of Iraq Freedom Congress in Salah al-Din and his name (Mahmoud solid) and a member of the Executive Office of the Student Union and the Progressive Youth in Iraq. ?

The arrest came on the back of the application for approval of the Council of Salah ad Din province to organize a peaceful demonstration in the city of Tikrit, to demand the basic rights of the masses such as termination of arbitrary arrests and the closure of secret prisons and the abolition of the Terrorism Act and unemployment insurance and the provision of electricity and improve the ration card ..

After receipt of the request positively, launched in the night attack on the applicant and a number of leading the conference, but they managed to escape except the pure Mahmoud, who was placed under arrest.

That the Council of Salahuddin province, not only to compromise one of the fundamental laws of human rights, but shows the governor of Salah al-Din Al-Baghdadiya news of the arrest for lying blatantly.

The Iraq Freedom Congress condemn these shameful practices of the Council of Salahuddin province and prepared a flagrant violation of fundamental human rights and demands the release of (Mahmoud sincere) immediately.

At the same time, a provincial council and governor of Salahuddin and riot police in Salahuddin full responsibility for the safety and security (Mahmoud sincere).
The Iraq Freedom Congress will use all possible means for the release of (Mahmoud sincere).

And reaffirms that such practices and repressive tactics will not stop the march of the conference, nor liberal masses in Iraq to bring freedom and bread and security in Iraq.

Iraq Freedom Congress

22-2-2011

2011年2月21日月曜日

サナテレビへの弾圧<続報>

サミール・アディルIFC(イラク自由会議)議長から、IFCとサナテレビへの弾圧についての続報が送られてきました。


デモ隊に暴力を加え、撮影していたテレビカメラを奪い取るなど、これのどこが民主主義でしょうか?マリキ政権、イラク大使館に抗議の声を集中しましょう。

みなさんの尽力に感謝します。政府部隊はメディアがタハリール広場に入るのを妨害し、その後有刺鉄線を張って、タハリール広場の中のデモ参加者たちを攻撃しました。彼らは人々を押しのけ、腕やこぶしで殴打したのです。その後、サナテレビの事務所が入っているタハリール広場のデモの近くにあるビルの4階に行って、事務所のドアをこわし、サナテレビのスタッフを挑発しながら脅迫して、タハリール広場のデモ隊への襲撃を撮影したカメラを没収したのです。

連帯して

サミール・アディル

We appreciated for your efforts. The troops prevent the media enter Tahrir Square and after that put barbed wire and attack the demonstrators in Tahrir Square by pushing the people, hit them by hand and boxing. after that went some of them to the forth floor in the building near the demonstrators in Tahrir Square which Sana TV office inside it and broken the door of office and provoking the Sana TV staff, threaten them and confiscated the camera which photographed the assaulted on demonstrators in Tahrir Square by troops.

With solidarity

Samir

2011年2月19日土曜日

マリキ政権がサナテレビを弾圧

イラクの首都バグダッドのタハリール(解放)広場のデモに対してマリキ政権は弾圧を加えました。そして治安部隊がデモを取材したサナテレビの本部を襲撃、全ての機材を押収しました!

このマリキ傀儡政権による弾圧を許してはなりません。イラク政府に抗議し、IFC、サナテレビに連帯を表明しましょう。

IFCのメールアドレスは以下の通り
Iraq Freedom Congress
 ifcongress@gmail.com

(翻訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

プレス発表

政府部隊がタハリール広場のデモ隊を包囲してデモ参加者を殴打し、イラク自由会議のサナ衛星テレビを襲撃した。
イラク自由会議 2011年2月16日

バグダッドのタハリール(解放)広場でのデモが7日間続いた後、イラク政府の部隊がデモ参加者たちを包囲して、タハリール広場でのデモをやめるか、アブ・ナワス通り(デモ隊が集まっていたところから数キロ離れている)に集会を移動させるかどちらかを選べと通告してきた。デモ参加者たちがその要求を拒否した時、政府部隊はメディアが現場を取材するのを妨害し、デモ参加者を肉体的に攻撃し殴打し始め、同じ部隊がサナテレビの本部に進入してメンバーを脅迫し、デモの時に撮影されたビデオテープを回収しようとして、サナテレビの全ての機材を押収した。

イラク自由会議はこのような行動と弾圧行為を糾弾するにあたり、デモは自由を愛する全ての勢力と共に正当な要求が受け入れられるまで続くと断言するものである。

2011年2月6日日曜日

2011年1月 ブレアをイラク戦争検証委員会に再喚問

2011年1月21日、イギリスのイラク戦争検証委員会(チルコット委員会)はブレア元首相を再喚問しました。昨年の検証委員会の審問の場がブレアの侵略戦争に対するひどい居直り宣伝の場と化したことに対する厳しい批判の中で実現した再喚問です。


ストップ戦争連合はブレアを戦争犯罪法廷にかけることを要求しています。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

戦争犯罪人のブレアは闇に紛れてイラク戦争検証委員会にこっそり入場

反戦運動の抗議行動参加者たちは、トニー・ブレアが2003年の違法な戦争を開始したのとにそっくりのやり方で闇に紛れてイラク戦争検証委員会に「こっそり入場」したあと怒りの非難の声を上げ始めた。

デイリー・メール紙 2011年1月21日

ブレア氏がウェストミンスターのQEⅠⅠ会議センターにこっそり入ったのは再喚問を受ける予定の2時間以上前であり、CND[核軍縮運動]やストップ戦争連合などのグループの抗議行動より相当前のことであった。

元首相が到着したのはまだ日が暗い時であった。

大勢の活動家が現れて、元首相をウソつきと呼ぶ横断幕を掲げ、「トニー・ブレアはハーグへ」とくりかえしたのであり、ハーグは戦争犯罪法廷が開かれている場所である。

一人の男性がトニー・ブレアのマスクを来て模造品の独房のドアに自分を手錠でかけて大喝采を仲間から受けた。

ストップ戦争連合のアンドリュー・マレー議長は言った。「またもやブレアは2003年の違法な戦争を開始したのとそっくりのやり方で闇に紛れてイラク戦争検証委員会にこっそり入場した。」

「願わくは今日この後ブレアはゴールドスミス卿によって受けた法律的助言について真実を語るように要請され、彼がいまだに秘密にしているブッシュに宛てた書簡の内容を公然と取り調べられるようにしてもらいたい。」

息子のショーン・ブリアリー伍長がイラクに配備直後に死んだピーター・ブリアリーは、ブレア氏が前回イラク戦争検証委員会に審問された時にやったのと同じように早い時間に到着して抗議行動に立ちはだかられるのを避けたことには驚かない、と言った。

「彼がこの場では適切な審問を受けることがないのは、自分の選んだどの時間にでも退出することができるからだ。彼は適切な裁判にかからなければならないし、法廷弁護士や法律家から審問を受けなければならない。彼は戦争犯罪人なのだから強制捜査を受けなければならない。彼は私の息子を殺したのだから私は彼が裁判にかけられるまで運動を続ける。」

労働党のジェリミー・コービン下院議員(イズリントン北地区)はブレア氏とジョージ・ブッシュ前米国大統領の間で交わされた書簡が公開されないのは、「不名誉なこと」であると言った。

「この検証委員会に何らかの意味があるのなら、関係書類の全てが公開されなければならない。」

CNDのブルース・ケントは抗議行動参加者たちに言った。「トニー・ブレアはゲームは終わったと言うことを知らなければならない。体制派の仲間のメンバーが今や彼に背を向け始めているのだから。」

「彼がやったことは大惨事であり、彼は戦争の惨害から数世代を救おうとして導入されたとても壊れやすい構造に実際に2本の指を突き立てたのです。世界中の他のどれだけ多くの殺し屋や無法者が今、ブレアはうまく切り抜けられるだろうか、と言ってるとしても、我々もそうするだろうか?」

ストップ戦争連合創設者の一人のジョン・リーズはイラク戦争検証委員会はイラク戦争の真実には到達しない資金の無駄遣いであると言った。

ストップ戦争連合はブレア氏とブッシュ氏の全ての往復書簡が明らかにされる戦争犯罪法廷にブレア氏が出廷することを要求する声が高まっていると言った。

2010年 英国イラク戦争検証委員会へのストップ戦争連合の批判

昨年(2010年1月)のイギリス・イラク戦争検証委員会(チルコット委員会)のブレアの証言に対するストップ戦争連合の批判です。


ブレアがイラク侵略によって大量殺害を実行したことに対して完全に居直り、彼の戦争犯罪について何の追求もせずに検証委員会の場をブレアの居直りと侵略戦争正当化の演台にすることを容認したチルコット委員会も厳しく批判しています。

こうした反戦運動の批判と闘いがあったからこそ今年(2011年)1月のチルコット委員会へのブレア再喚問が実現したと言えるでしょう。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)


審判:大失態であり恥辱であり完全な失敗
トニー・ブレアはイラク検証委員会から最も手ぬるい扱いを受ける

次から次へと出る論点に関して、イラク検証委員会はブレアの証言を問題にする意思も能力も全くないことが明らかになった。ブレアが退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ガーディアン紙 2010年1月30日

ブレアを牢獄へ

シューマス・マイルン(ジャーナリスト)

今朝の大失態は失敗へと変わった。次から次へと出た論点に関してチルコット検証委員会のメンバーはイラク戦争に関するトニー・ブレアの最も打撃の大きい告白や不明瞭やウソに対して問題にすること―あるいは見たところ確認することさえ―する意思も能力もないことが明らかになった。

大部分のイラク人が占領に反対し、必然的に起きる予想された武装抵抗を支持したという事実について、委員会の誰1人として前首相に対して追求しなかったのはなぜだろうか?それどころか、彼らはブレアが反論してそれが全て「外部的要因とアルカイダとイラン」のせいであると主張するのを許したのである。彼らはそのどちらもイラクに持ち込んだのがイラク侵攻であるということを覚えていないようでもあった。

ブレアがイラクの大量殺人はテロリストに責任があると主張した時、少なくとも最初の2年間における市民殺害の大部分は占領軍によって行われたのだと発言しようとは誰も考えなかったのである。

対イラク侵攻の影響がイギリスや他の場所にかけられたテロ攻撃をあおり立てたことについてはどうだろうか?一言もなかったのである。そしてブレアがイラクにおいて「我々は人道上の大失敗に終わったのではない」と主張し、イラクの「顕著な」進歩ぶりを示す人々を誤らせる一連の統計を引用した時、委員会のメンバーは、国連が何と言おうと、それも喜んで受け入れたようである。

驚くべき証言があった。占領開始後には「残念ながら我々が問題になるだろうと考えたことは、問題ではなかった。」とブレアは言った。アルカイダとイランは「対イラク侵攻の任務をほとんど失敗させかけた」…しかし結局「そうはならなかった」とブレアは言明した。米軍が「あまりにも厳しく、あまりにも激しく」ファルージャにすでに突入していたというのである。いずれにしても、ブレアの大西洋を隔てた愛は彼が権力から去って以来深まっているのである。

検証委員会の報告に反論があるだろうと期待する人もいるかも知れない。しかし、破滅的な戦争犯罪に責任があると国内外で見なしている人が多い1人の男に対する当局の寛大ぶりの惨状には吐き気を催す。ジョン・チルコットはある時、占領の教訓は「高くついたが非常に必要なもの」だったと言った。その代価を実際に払った何百万人ものイラク人は全く違った見解を持っているのだ。

イラク検証委員会のブレア

ヘンリー・ポーター(小説家、ジャーナリスト)

正面のチルコットの前に現れたブレアの姿は炉端談義をしているみたいで、もっと穏やかなロンドンのクラブから来た委員会と対決するほどの困難さもなかった。

検証委員会のメンバーが、首相である時には正しいと信じることがほぼそのまま正しいことであるというけしからぬ考えや、判断を下すこと自体に決定的な価値があるという発想を実際に問題にすることはただの一度もなかったのである。
このことは―驚くことではないが―完全な失敗であり失態であった。この公聴会はチルコット委員会の報告がどんな結論を出そうとも、国民に対して、軍務についていた愛する人を失った人々やイラクの人々に対して、不満足感を与えた。審問団の歴史家―マーチン・ギルバート卿とローレンス・フリードマン卿である―と2、3回会話を交わした後は、十分に準備をしていたブレアにとってその後に続く6時間は汗を流す必要がないことは明白であった。すなわちそこに座って彼らに調子を合わせるだけの問題だったのであり、ブレアはそれを牽制と重要でない点での譲歩と誠実な政治家であるという外観を見せることによってやったのである。

午後になるまでに、検証委員会は2003年の侵略が2010年にもっと大きくなる危機から救ったのだとする彼の誤った世界観のための演台へと転落させられたのである。委員会はどうしてブレアにそんなことをうまくやらせることができたのだろうか?彼らは大量破壊兵器や、対イラク戦争の開戦理由として大量破壊兵器とサダムの打倒を混同した事や、ブレアが法律に関する意見を押さえ込んだことや、イラク侵攻後の計画を立てなかったことについての情報に基づいて厳密にブレアを審査するということをしなかった。委員会はブレアが後悔していないと表明した時に彼からどんな小さな後悔を引き出しもしなかったし、驚きの声を上げることもなかった。

ブレアが検証委員会から退場する時に浴びせかけられたヤジが、体制派の頭の古い連中のこの哀れむべき委員会の前で一日中彼が経験した中で最もやっかいな反対意見であった。

ハイファ・ザンガナ(小説家、イラクのサダム・フセイン政権時の元政治囚)

イラク戦争検証委員会でのトニー・ブレアの証言を見るのはひどく苦痛であった。ブレアは自らの経歴全体でそうであったと同じように口先のうまい人物であり、自らの「完全に明快な」見解を、選択肢がいかに全く明快な物であるか、そして「自らが正しい時には実行するのが正しいことだ。」と繰り返したのである。彼は自分のいつもの台本に従って、自分の演説の文章を読み上げたり、WMD[大量破壊兵器]について今やより強く感じている理由を長々と述べ立てたりして、イスラエルの武器庫については一切言及しないくせに「イランの危険性」について委員会を巧みに操ることが何とかできたのである。彼はとても独善的であり、私は彼が「イラク戦争について私を裁くのは神だろう。」と大声を上げて聖書を抱えて今にも立ち上がるだろう、という印象を受けた・

しかし、戦争犯罪人が自らの罪を認めることがどれくらいあるというのだろうか?彼は暖かく明かりの多いホールで家柄の良い人々と永遠に続くかも知れない学問的会話をしていたのである。大学生の方がもっと厳密な質問をしたことだろう。

バスラの62才になるおばあさんのサビハ・クドゥール・タリブは、彼女の息子によると、2006年に英国軍兵士によって自宅から連行された。拷問を受けた彼女の死体が英国軍の死体収容袋に入れて道ばたに投げ捨てられていた。英国警察が捜査中であると私たちは告げられている。ブレアも捜査を受けなければならないのではないのか?ブレアの尋問を、ブレアとブッシュによって始められたイラク人に対する尋問と比べるべきだ。

アブ・グレイブは「解放者」によって始められたテロ作戦の始まりに過ぎなかった。その遺産は、傭兵と米国・英国によって訓練を受けたイラク人警備部隊や、真夜中の家宅捜査や、下着のままで両手に手錠をかけられ頭に袋をかぶせられて闇の中に引っ張って行かれた人々が、後になって「間違いだった」と呼ばれるかも知れない申し立てについて拷問を受けることになるのだ。先月だけでもテロの容疑で2000人近いイラク人が逮捕されたのである。

ブレアの洗練された演技はイラク人やアラブ人やイスラム教徒にとっては現場で彼らが経験していること、すなわち人種差別的な植民地外交政策を立証しているに過ぎないのである。

この検証委員会は正義と国際法の再確立につながってこそ初めて意味がある。そうでなければ、増え続ける孤児たちが2,3年のうちにイラクと世界に何をするのかを想像できるだけである。最近の赤十字のレポートに引用されているが、ある人道活動家が「私はかつて一度爆発の現場に呼ばれたことがあります。そこでは4才の男の子が首を吹き飛ばされた母親の死体の横に座っていました。男の子はお母さんに話しかけて、『何があったの?』とたずねていました。」と語った。男の子は生きている人たちにも尋ね続けるだろう。現在の国連推計では、イラクの500万人の孤児が出た責任は英国と米国にあるとしている。今や、ブレアたちを民主的な選挙で二回選んだイギリス国民が、犠牲者への賠償をして、政府にイラクと世界に与えた打撃に対する責任を取らせる時である。

ジョージ・ギャロウェー下院議員
(ベスナルグリーン・アンド・ボー選出のリスペクト党下院議員)

悲しいことにこうやって彼は会場を支配し、質問されるのを避け、問題を追及された時に世論を欺くことを許されたのである。

イラクは侵略されてはならなかっただけではなく、経済制裁もされてはならなかったのである。それが今日の話からは完全に抜けていた。

ブレアは「要求に従うサダムの最後のチャンス」について話し続けるのを許されたが、イラクは違反をしていなかったし1994年以後も違反はしていなかった。ブレアは見えすいたウソを言うのを許され、検証委員会はウソを無視したのである。

イラクの重要な違反の理由の一つは、イラクがイラク国外で軍幹部を尋問することを武器査察官に認めよと要求する決議の条項をイラクが破ったことである、とブレアは言った。実際には、武器査察官が軍幹部をイラク国外に出るように要請する権限を決議は与えていたが、そのような要請は行われなかったのである。

だからイラクは拒否はできなかったし国連安保理決議1441条に違反することもできなかった。その事を知らなかったとしても、また知っていたとしても、検証委員会はこの問題でブレアに立ち向かう勇気がなかった―それはとてつもないウソである。

私たちに終わりはない。この連中に責任を取らせる運動は続いているし、総選挙へと続いていくことは疑いない。

ローズ・ジェントル
(彼女の19歳の息子のゴードンは2004年6月にイラクで殺された)

私が会場に入った時、体は震え、胃がむかついていたのは、彼に何も言えなかったからだ。私はこう言ってやりたかった。「真実を言え。なぜウソをつく?白状して自分は間違いを犯したと言ったらどうだ?」と。

最後の最後の部分は胸が悪くなった。ジョン・チルコット卿が後悔しているのか、と聞いても彼はしていない、と言った。そこには(家族を奪われた)家族がいたのに、一片の同情も一片のそれらしきものもなかったのである。耐え難いことだった。

彼はちょうど私たちに背を向けて座り、そのあと私たちに会うことも拒否したし、彼らしい態度だ。私は彼の姿を見ることができたが、彼の顔を見たかった。彼は私たちの方を決して見ようとはしなかった。

たくさんの良い質問が彼にされたが、実際には、どの質問にも彼は答えなかった。彼は問題を書類、すなわち調書に戻し続け、45分の大量破壊兵器の主張の責任をメディアのせいにしようとしさえした。

新しいことは何も知ることはなかったと思うし、検証委員会が終わってもできることは多くない。

私は彼を決して許さないし、彼は法廷に立たなければならないと確信している。私は一生彼に対して怒るだろう。

ローナン・ベネット(シナリオライター、小説家)

「私は自分の信じることしか知らない。」正直というものが常にブレアの最初から最後までの防衛線になってきた。彼が窮地に立っている時に、すなわちさらに悪いことに証言が誤りであることが明白になる時に、彼は誤りは免れないものだという人間一般に共通の性質を「あれ、おやっ?」と言って肩をすくめるという英国の公立高校版の仕草で認めるだろう。

フェルン・ブリットン[テレビのニュースキャスター]のインタビューなのか?自己卑下して、少し練習をしておいたジョークというのはコミュニケーションの前線においてはまだ何らかの学ぶところがある。

ローレンス・フリードマン卿がサダム・フセインが大量破壊兵器を持っていたと信じているのか、と聞いた時、ブレアはこう答えた。「私は信じていました。私は確かに信じていました。」彼は45分で大量破壊兵器が配備可能だと言うこと、経済制裁が機能していなかったこと、国連の2度目の決議が可能であること、戦争は合法的なものであること、恥知らずにも9・11事件とアルカイダとイラクを結びつけながら、イラクは脅威であったことを信じていたのだと彼は繰り返した。

正直が大きくなればそれだけ信じることも大きくなる。「彼の証言は、正しいことをしていると信じている人間のそれであった。」とBBCのニコラス・ウィッチェル記者が言った。我々はみな、その時には自分が正しいことをしていると信じた他の指導者たちのことが思い浮かぶ。そのかなり連中は極悪人であった。

英国の選挙で選ばれた指導者が信じていた唯一の点は、それが事実と合致するかどうかと言うことであった。信じていることが事実であるとなれば、自らの目的に合うどんな行動を取る道も開かれるからである。トニー・ブレアは一つの目的を持っていた。「第三の道」というたわ言のために、彼は論客になるのである。

幾万もの市民が死んだ戦争を始める権利を彼とブッシュが持っているのだという暗黙の前提は検証委員会を構成する男爵夫人やナイト爵や高官によっては疑問を出されることはなかった。ナセル?スエズ?モサデク?欧米諸国は常に自らの目的を正当化する方法を見いだすことができるのである。

在任期間中、ブレアは自分の分の支払いをいやがるので悪名高かった。彼は横の出口からすり抜けてヘッジファンドの友人の所に復帰した時、彼が爆撃をした国の人々は長期にわたって彼の正直さに対する勘定書を掲げ続けるだろう。

抗議行動参加者

トニー・ブレアの証言を聞いた聴衆の中の2人が、証言が終わった後で彼のことを「ウソつき」で「人殺し」だと言った。

何時間も聴衆は静かに聴いていた。しかし、終わり近くなって、彼は1人の発言妨害者に発言を中断させられたが、すぐに検証委員会議長のジョン・チルコット卿に制止された。テレビカメラが放映を止めた後、会場の聴衆の1人がブレアに対して叫んだ「お前は嘘つきだ。」2人目が付け加えた。「そして人殺しだ。」

イラクで殺された英国兵士の家族が元首相は「一人よがり」だったと言った。家族の一人はブレアが彼女の目を見て息子を亡くしたことに「申し訳ない」と言ってほしいと求めた。

バークシャーのリーディングのアンネ・ドナチーは2006年に狙撃兵によって18歳の息子のポールを殺害された。彼女はブレアを糾弾した。「今朝私が聞いた限りでは、彼は全てを否定しているだけです。彼は真実に面と向かうことさえしないでしょう。彼が私の息子をイラクに送った時、巨大な誤りをしたのに違いありません。」

北ウェールズのルランドゥドゥノのテレーズ・エバンスは2003年にチヌーク・ヘリコプターの事故で24歳の息子のリウェリンを失った。「私はトニー・ブレアに私の目を見て申し訳なかったと言ってほしいだけです。ところが彼はそんなことはしないであそこでニヤニヤ笑っているのです。」

その後、抗議行動参加者たちは「ブライアー[ウソつきブレア]」と書いたプラカードを握りしめてブレアが出発するのを待った。その朝ブレアは彼らを避けて午前7時30分に通用口を通ってウエストミンスターのQEⅠⅠセンターへと滑り込んでいた。

屋外の警察の隊列が抗議行動参加者と検証委員会の間に立った。

「彼は国民に顔を見せに来る誠実さもない。」とストップ戦争連合の呼びかけ人のリンドゼー・ジャーマンが言った。「裏口からこっそり入り込むなどは、彼のウソと偽りと言い逃れの典型だ。」

2011年2月5日土曜日

IVAWの女性のドキュメンタリーがアカデミー賞候補に

IVAWの執行委員の女性であるロビン・マレーさんを題材とした37分のドキュメンタリー「ポスター・ガール」がアカデミー賞短編ドキュメンタリー部門の候補にノミネートされました。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

「ポスター・ガール」がアカデミー賞候補作に!
IVAWは映画監督のサラ・ネッソンとIVAW執行委員のロビン・マレーに第33回アカデミー賞候補の指名を受けたことを心から祝福する。「ポスター・ガール」は短編ドキュメンタリー部門の8つの最高の作品の一つである。

「ポスター・ガール」は「感動的な生のドキュメンタリーであり、自己発見と贖罪[しょくざい]の旅に出発するロビンの2年間を追っていき、美術と詩を使って彼女の人生を再定義する。」

我々はアカデミー賞のウェッブサイトを訪問してあなたのフェースブックのログインを使って、あなたの「好み」の映画だと選考委員会に教えることで彼らへの支援を示すようにみなさんに勧める。

また、2月1日午後3時にIFCセンターでのニューヨーク市の封切り上映に行くこともできる。上映の後にはサラとロビンのトークバック[上演のあと聴衆の感想を聞き,監督や出演者が新しいヒントを得ようとする試み]が行われる。

映画のあらすじ:

「ポスターガール」はロブン・マレーの物語であり、彼女は全米の高校代表のチアリーダーであったのが、アーミー・マガジン[米軍協会が出版]の全景写真で有名になった戦場の女性の「ポスター・ガール」になった。今はイラクから帰国して、彼女の頑健な姿は崩れ始めて、外傷性ストレス障害(PTSD)の身体を衰弱させる影響と格闘することとなった。

初の監督となったサラ・ネッソンの撮影と監督によって、「ポスター・ガール」は感動的な生のドキュメンタリーであり、自己発見と贖罪[しょくざい]の旅に出発するロビンの2年間を追っていき、美術と詩を使って彼女の人生を再定義する。

IVAWがオバマの一般教書演説を批判

IVAWがオバマの一般教書演説を批判しています。


(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)
帰還兵士は大統領が現実を把握していないと見ている

オバマ大統領の昨夜の一般教書演説は軍服の男女の貢献を賞賛し、帰還兵士に必要な待遇を約束した。しかし演説は、大統領が帰還兵士に直面している厳しい現実を把握しておらず、彼らの必要なものに対処する計画を作成していないことを示した。戦争に反対するイラク帰還兵の会(IVAW)は大統領が無視した帰還兵の必要なものに対応するという戦争の人的、財政的損失を削減する勇敢な決意を持ったイラクとアフガニスタンの帰還兵の声を代弁する。

オバマ大統領はアフガニスタンとイラクの戦争が米軍と経済に対してむき出しにしている大変な犠牲を全く過小に語った。アフガニスタン戦争は今や米国史上最長の戦争である。米軍の医療経費は全米平均の2倍の割合で急増し、ペンタゴン[米国防総省]の予算の主要な額を占めている(USAトゥデー紙 2010年4月25日)。2009年は、記録が付け始められて以来、精神性医療疾患が入院の主要な要因となった最初の年となったのであり(USAトゥデー紙2010年5月16日)、それはすなわち複合トラウマの不気味な象徴である。オバマは演説の中で帰還兵士が「頭を高く上げて」帰国していると述べたが、それは記録的な自殺率の中には反映されない作り話である。
「オバマ大統領、あなたは、我々の兄弟姉妹が受けるべき治療を受けていないために苦しみ自殺するのを見ている時に、我々が頭を高く上げていると本当に思っているのですか?兵士たちは長い拍手の中断以上に、人間らしい治療を受ける必要があるのです。」とイラクに2回派兵された帰還兵士であるIVAWのマギー・マーチンは言った。

IVAWの帰還兵士たちは10月に開始された、トラウマにかかっている兵士を戦場に再配備しようという米軍が広範囲にやっている行為を終わらせるために健康回復作戦の運動の先頭に立っている。

「兵士は以前の実戦配備中に受けた傷の治療を受けることもなく実戦に再配備せざるを得ない。軍隊内の性に関する被害のトラウマ、外傷性ストレス障害、外傷性脳負傷が結果として無制限に増大していて、それは人的にも財政的にもその損害は受け入れられないものである。」と米国陸軍で14年間軍務につき、現在は戦争に反対するイラク帰還兵の事務局長であるホセ・バスケスが語った。
失業は多種多様な再配備と不十分な治療によるもう一つの高い損失である。労働統計局の1月発表の報告では最近の帰還兵はほぼ12パーセント―すなわち全米平均より2.3%高い失業率であることを示している。戦闘中に受けた精神的肉体的負傷は帰還兵士が就職先を見つけ自らの仕事を開始するのをより困難にしている。

「大統領はアフガニスタンからの撤退が7月に始まると言ったが、撤退はいつ終了するのだろうか?全ての兵士を即時帰国させ、彼らの得た治療に資金を投入しよう」とイラク戦争帰還兵士でIVAWメンバーのザック・チャオテが言った。

IFCがエジプトの民衆蜂起を支持

IFC(イラク自由会議)がエジプトの民衆蜂起を支持する声明を出しました。さらにIFCはバグダッドのエジプト大使館に対するデモも呼びかけています。

(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

自由と平等のために闘うエジプト民衆万歳

イラク自由会議 2011年2月1日

現在1週間以上にわたって、エジプトの政権はエジプト国民の大衆的蜂起に打撃を受けてぐらついている。それは腐りきった汚職とエジプト国民の富の横領にどっぷりとつかった政権であり、中東地域の長年にわたる反動の牙城の一つと見なされている政権であり、アメリカ合衆国とイスラエルと欧米諸国によって無条件に支えられ、抑圧と逮捕と死刑と暗殺と戒厳令によって国際通貨基金と世界銀行の支配を押しつけてきた政権である。

それはエジプト国民の貧困化の原因となった政権であり、エジプトでは200万人の子どもがホームレスであり、人口の3分の1が貧困線以下であり、数百万人がゴミ捨て場で暮らしているのはもちろん、25万人以上の人たちが墓場で暮らしているのである。

それは新世界秩序に始まり全中東構想やイラク占領に至る米国の反動的な政策を擁護し輸出する港にエジプトを変えてしまった政権である。

米国政府は貧困と困窮をもたらした独裁政権がドミノのように倒れていくのを注視しながら、この変化がもたらすだろう事態を恐れている。米国政府とイスラエルと欧米諸国は中東地域における自らの権益と影響力を維持するためにエジプトの政権から救い出せるだけ救い出そうとしている。そのために、彼らはこの蜂起の姿をゆがめようとして、偉大なエジプト国民の蜂起をイスラエルと中東の安全の脅威になるだろうイスラム主義者の蜂起だと描きだそうとしているが、実際にはこれは貧困化し飢えた民衆の反乱であり、自由と平等を求める蜂起なのである。米国政府はそのような試みをすることでエジプト国民によってこれを最後に追い出されるであろうエジプトの政権を守り続けるのを正当化することを狙っているのである。

エジプトで起こっている事態とヨルダンやイエメンやスーダンやアルジェリアなどの中東全体で連鎖的に起こっている抗議行動は、ありとあらゆる貧困と不公正と自由の抑圧に反対してチュニジアで火花を散らした火の継続であり、それは中東と世界を変える新しい段階を記しているのである。

イラク自由会議は、エジプト国民の蜂起もチュニジアの蜂起もイラクに殺し屋どもを連れてきた占領に反対する自らの闘いにとっての前進であると見ている。IFCはまた、エジプト国民とチュニジア国民の勝利はイラクと中東の全ての革命的な自由愛好勢力にとっての勝利であると見ている。IFCはエジプトの革命運動に対する支持と支援を表明するものである。

エジプトで自由のために亡くなった人々にあらゆる栄光あれ。

自由の象徴のタハリール[解放]広場万歳

エジプトの自由を愛する人々万歳

IFCがチュニジアの革命を支持

チュニジアのジャスミン革命を支持するIFC(イラク自由会議)の声明です。

アラビア語から英語への機械訳からの和訳です。
(日本語訳:イラク市民レジスタンス連帯委員会)

自由とパンと幸福を最終的に実現するという目的を達成するまでチュニジア民衆の決起を支持する

 IFC(イラク自由会議) 2011年1月17日

1ヶ月以上前から、チュニジアの労働者、法律家、意思、知識人、あらゆる被抑圧階層、諸団体、労働組合、専門家、政治勢力、自由主義者が諸都市の街頭を選挙し、雇用機会を提供し、自由とより良き生活を開始することを求め、そうした要求を発展させて23年間にわたってチュニジア民衆の頭上に行使したあらゆる形態の政治的、経済的、社会的抑圧を生み出したジン・エル・アビディン・ベン・アリを打倒した。

あらゆる形態の抑圧と弾圧を基礎にしていたベン・アリの体制は欧米諸国、特に米国とフランスの支援がなければ権力にとどまることはできなかったのであるが、米国とフランスは自らの権益に対する脅威をおさえ阻止するためにインティファーダに決起した大衆への支持を競い、チュニジアの社会政治体制の根本に対する自由主義者と穏健派の目的を歪曲しようと活動している。

民衆蜂起が最初に火花を飛ばして以来世界のメディアが相変わらず黙殺しようとしたことはこの闘いを妨害をしようとする無駄な努力であった。

世界の自由主義諸国からどんな形態の支援も受けることが無い一方で、ベン・アリ政権による野蛮な弾圧に道を開いてきたベン・アリ政権に劣らず腐敗した野蛮な体制によって支配されている国々は、革命的な蜂起の精神が入ってくることを恐れて、大衆と対話をすることを期待しているのであるが、アラブ世界と中東地域ではそのような期待は破綻した。

ジャスミン革命と呼んだチュニジアの大衆蜂起の洪水が可能となった第一歩として、体制の頭目(ベン・アリ)を追い出し、彼はサウジ・アラビアに逃亡した。しかし、チュニジアの自由獲得のための大衆の闘いの動きを維持して支配政党であるベン・アリの政党に支配を許さないという最終的な目標を達成する活動が政府に支配政党が入ることに反対するチュニジアの諸都市の大衆の今日のデモで表明されたのであり、この最終目標を達成するために全世界の大衆と進歩勢力の支持が必要である。

イラク自由会議はチュニジアの民衆蜂起であるジャスミン革命、インティファーダ、自由のパンを支持し、自由で平等で豊かな世界を獲得するために前進するように呼びかける。
同時に、イラクの自由勢力の全ての大衆と革命勢力に公正な政治制度を確立するというチュニジア民衆の要求をジャスミン革命が達成するまでこの決起を支持することを訴える。すなわち、社会的な自由と平等と幸福を達成しより良い世界を獲得することである。